ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

新しい人は喜び アダムは嘆く

 

 2024年は、二極化が進み、2025年には二極に分かれ、2026年には今の世の中と全く違った世になると言われています。

 

 スピリチュアルな人々の間では、今まで時間空間のある三次元の世界であったのが、この後、時間空間に縛られない五次元の世界に移行する。今は、その移行に向けて四次元の世界を通っていると言います。

 この世の終わりに向けて、神が創造される新天新地に入るまでの移行の期間に入ったのでしょう。

 

 肉体を持つ人間の三次元世界は終わり、霊のからだで永遠に生きる霊の五次元世界へと移行するというのです。

 二極分化している今の世界は四次元の世界。すなわち、肉体のからだを持つ人間もいるし、死から甦り永遠に生きる霊のからだの新しい人もいるという世界になるようです。すなわち、肉のままの人と御霊による新しい創造の人の混在する地上世界の期間が始まりつつあるというのです。

 

 目には見えませんが、肉体を持ちながら神の御霊を受けている人々は聖霊の器であり、永遠のいのちを宿して霊的に生きる人々です。生まれつきのままの肉体で神の御霊を受けていない人々は、肉体の死とともに朽ちて死んでゆく人々です。彼らには、新しい霊のからだは用意されず、火の池に入る者の姿はみな、肉皮のない骸骨の姿のようです。

 

 この地上では、肉眼で見えません。肉眼で見ると同じ肉体人間であり、肉の人と霊の人との区別はつきません。しかし、これから地上に神の御霊【真理の御霊】が注がれると、御霊を受ける人と受け取れない人とに分かれていきます。

 御霊が世から取り去られると、光の子と闇の子の区別が人の霊においてはっきりとわかるようです。

 

 それは、ひとりひとりの魂のあり方によって分かれます。キリスト教の中で光の子と闇の子とが分かれます。仏教の中で光の子と闇の子とが分かれます。神道の中で光の子と闇の子とが分かれます。それぞれの民族の中で光の子と闇の子とが分かれます。それぞれの国の中で光の子と闇の子とが分かれます。世界は、光の子と闇の子とに分かれるようです。

 

 光を求める人々と闇を愛する人々は同じものではなくなります。それまでは、同じ人間として社会生活をして来ましたが、お互いにお互いを異邦人のように思うでしょう。自分とは全く異なった人のように思います。互いに交わることもないでしょう。

 

 民族と民族とが敵対し、国と国とが敵対する中で、光と闇ははっきりと別れるのです。そして、闇の子らは光の子らを迫害し、滅ぼしていくのです。

 

 人間の科学は進み、テクノロジーによって五次元の世界を造り出していくでしょう。メタバース(現実世界からインターネット上の仮想空間)が新しい人間の生きる世界となるでしょう。新しい人間といっても、御霊によって新しく生まれる神の子どもたちとは異なり、肉体のからだのままで永遠に生きようとする人間(自分の意識を永久不滅のものとする人間)のことです。

 

 神道のいう弥勒の世、聖書のいう千年王国を、自分たち人間の力で実現しようとする取り組みです。

 人々は、アバターを使って仮想空間でコミュニケ―ションや売買や社会活動をし、時間空間に縛られず自由に行動し、夢のような生活、夢のような社会を作り出すでしょう。

 

 光を持たない人、求めなかった人々は、この新しい世界の到来に喜ぶことでしょう。しかし、それは仮想空間の世界であって、現実の世界ではないのです。現実の人間は変わらず肉体を持って食べ飲み排泄して生きているのです。

 

 光を求める人々はそのような便利な世界に惑わされません。彼らが求めているのは、肉体人間の存在そのものが救われることなのです。肉体には死が伴います。アバターを持っていても、肉体を持つ人間自身は時間の経過とともに老いてゆき、やがて死を迎えることは変えることができないからです。

 

 長い目で見たら、しばしの幻想を体験しているだけなのです。雲をつかむような捉えどころのない生き方を選択しているのです。しかし、その生き方は悩みをごまかせます。アバターに自分自身を投影している間は、老いる心配も死の心配も人間同士の軋轢も味わわなくてよいからです。

 彼らは、いのちを選択していません。いのちに伴う痛みも苦しみも悲しみも手放したいのです。

 彼らは、個として生き、個としての喜びと楽しみを味わいたいのです。

 

 一方、いのちを得たい、死の問題を解決したいと願う人々は、自分の中にはいのちがないことを悟ります。いのちは他から貰わなくてはいけないのです。いのちを得るためには、魂をきよめなければならないと思って、考え方生き方を捉えなおし、きよくあることを目標とします。

 

 肉体の拘束、時間空間の不自由さを人間の知恵によって解決しようと考えず、そのことをなしてくださる目に見えない存在を求めます。それが、神なのか仏なのかだれなのかわからないけれども、ひたすら願います。彼らの霊が、彼らの意識の外で、世界が永遠の滅びに突入することを知っているからです。

 そして、その時が迫っているからです。水を飲んでも飲んでも渇き切った喉のように、彼らの魂は、本物の救いに渇いているのです。あれだろうか、これだろうかと捜し回っているうちに、時間ばかりが過ぎてゆきます。

 

 神は、仏教にも、神道にも、キリスト教にも、ほかの宗教にも、渇く者たちに、生ける川の水を注がれます。いのちの水です。魂を生かす真理の御霊です。

 渇いていた人々は、真理の御霊を受けて生き返ります。そして、真理を悟るのです。彼らの心には、罪を贖ってくださった神の子羊の愛が注がれます。渇いた彼らの心は、砂が水を吸うように子羊の愛を十分に受けて、霊の目は開かれ、真理を悟るのです。

 

 仏教の中にも、神道の中にも、キリスト教の中にも、ほかの宗教の中にも、神が救いに定めた人々がいるのです。心から真理を求める真実な心の持ち主たちです。

 

 五次元の生き方を目指す新しい人間たちは、この世の事に夢中です。自分たちで、新しい世界を創造することにわくわくしています。

 

 しかし、真理の光を求める人々は、神が与えられる新しいいのち(真理の御霊、すなわち永遠のいのち)によって、神が創造される新しい世界(弥勒の世、すなわち千年王国)に入ります。

 そこは、真理の御霊によって永遠のいのちを受けた五次元の新しい創造の人々(時間空間に縛られない霊のからだの新しい人)と、神の創造される新しい世界に似せ人間が構築した偽りの五次元の世界を生きる肉体のままの三次元の人間とが混在する、過渡期の四次元の世界かもしれません。

 

 御霊に新しく創造された新しい人々は、永遠のいのちを得たキリストのからだです。肉体を脱ぎ、新しい復活のからだを得るのです。生まれつきの人間ではありません。

 千年の新しい世界を治められるとこしえの王キリストに仕える、とこしえのイスラエル王国に属する人々です。真理の御霊が、彼らを生かして、肉なる者を永遠に生きる新しい人(神の子ども)に造り変えられるのです。

 神は、彼らに、千年王国が終わった後に、まことの五次元の世界、時間空間の拘束のない全き自由の国、すなわち「新しい天と新しい地」とをお与えになられます。

 彼らは、新しい天と新しい地とで、永遠に生きる神の子どもたちなのです。

 

 一方、千年王国で、とこしえのイスラエルの王キリストのおられる神の都にはいれなかった四方の国々に住んでいた、いのちの書に名前の書かれていない人々は、神の新しい創造(キリストと真理の御霊)を拒んだ人々です。

 まことの霊の人に造り変えられていない彼ら人間は、自分たちの生きた夢見る永遠の世界は仮想空間の世界であったことを思い知るのです。偽りにより頼んだ彼らは、まことのいのちを得ることができません。

 

 千年王国が終わると、彼らは神の白い御座で裁かれて、悪魔のために用意された火の池に入るのです。

 

 生まれつきのままの肉体の人間は嘆きます。アダムは罪の清算をするそのときに至ったことを知り、嘆きます。罪が残ったままの土から造られたアダムは、罪の報酬の死である永遠の死(霊的な死)に定められます。

 

 神の子羊の血によってすでに罪が清算され、御霊によって新しく造り変えられて新しい人に創造された神の子どもたちは、もはや朽ちてゆく土から造られたアダムではありません。御霊によって新しく生まれ、キリストの血によって魂を死から買い戻された罪のない神の子どもとなったのです。

 神の子どもたちは、キリストを頭とするキリストのからだであり、新しいひとりの人なのです。

 

 肉のままの生まれつきの人間と、新しい創造の人とは分けられます。今年、それが始まるようです。

 神が注がれる真理の御霊を受ける人と、御霊を受け取れない人もしくは拒む人とは、行き先がはっきりと分れるのです。

 

 新しい創造を受けない人々は、アダムの嘆きの中に組み込まれます。それは、後悔してもしきれない絶望の嘆きです。

 終わりの日に、新しい人は声高らかに神をほめたたえて、永遠の喜びに満ちます。

 

 千年王国の後、生まれつきのままで贖われていないアダムは、着ていた肉(肉体)が焼かれ、裸の状態(骨)となって、永遠の牢獄にいれられます。

 新しい人は、肉の人間が夢見た本物の五次元の世界(永遠のいのちのとこしえの世界)に、新しい白い衣(復活のからだ)をまとって、はいるのです。