人は何故、地球上に生まれて来たのでしょうか。
魂がきよめられて、永遠のいのちを得るためです。
地球から宇宙に出て行くと、なんとそこは漆黒の闇です。多くの星々は、この漆黒の闇の中に存在しています。地球もそうです。太陽や月の光があって明るく見えますが、実は、漆黒の闇に浮かぶ星です。
人の目は、光がないと見えません。そこに何かがあっても、真っ暗なところでは無いに等しいのです。その存在を確認できないからです。
五十代頃から物が見えづらくなって、目を細め困惑している母を見て笑っていた私も、物が見えづらくなって、あの頃の母の気持ちがわかるようになりました。
うす暗いところでも作業ができていたのに、光を当てないと見えないのです。見ること自体が難しいのです。人の目は、光によって物を見ているのだと実感しました。
地球は物体によって成り立っている星です。陸と海があり、山と川があり、目に見える生き物や植物に満ちています。霊的な世界ではなく、物体のある現象の世界に人間は生きています。
この世に生まれるためには、肉体が必要です。肉体をもって人間となります。人間のからだには、目があり耳があり、一つ一つのからだの機能を使って生活しています。
しかし、宇宙は霊的世界のようで、光がなくても良いようです。物体を見るわけではないので、光を必要としません。霊の存在は、インスピレーションを使って意思伝達するようです。耳や目や口は、人間の肉体のものの働きとは少し異なるのかも知れません。
霊は存在そのもので、ほかのものを認知しほかのものと交流するようです。漆黒の宇宙の中でも不自由はありません。
しかし、地球は違います。現象によって認知する世界ですから、光が必要です。光がなければ、物体を確認することはできないからです。
肉体を持つ人間は、現象を頼りに生きて来ました。そして、肉体の五感(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚)を使って認識します。
ところが、人の起源は、創造主であられる神であり、土から造られたというものの、物体からできたわけではありません。
神の息によって生きるものとなったのです。かたちは物体ですが、物体(肉体)の中に入っているものは、目に見えない霊であり魂です。
それゆえ、物体に頼らなくても、認識する能力が備わっています。霊を使う人はインスピレーションを、魂を使う人は感情(心に働く感覚)を使って、目に見えるものとは違うものを捉えることができます。
神は、人に「永遠をおもう思い」を与えておられます。人には、「永遠」という思想が埋め込まれています。
神は、霊的存在の宇宙に、光によらなければ認識することのできない肉体で生きる人を養い育てる地球を造られました。
肉体の人は必ず死にます。人は、空間や時間に拘束される不自由な肉体な中で、光への憧れと拘束のない自由への望みを持つようにされているのです。
地球以外の宇宙の生命体は、漆黒の闇の中にいても、自由です。それゆえ、光や拘束のない自由への憧れを持たないでしょう。
神は、人に肉体を与えて、永遠を思う者とされました。
いま、神との契約のアブラハムの子孫イスラエルと、神がイスラエルにお与えになっておられるイスラエルの地をおのれのものと考えるパレスチナとの間で戦闘が起こっています。
アメリカが世界に広めた人道主義は世界に受け入れられ、世界中が支持します。
人のいのちの大切さを強調する彼らの思想は、人道主義です。神を神とする信仰を土台とした思想ではありません。神をたたえるものとは違います。
とこしえの世界は、神を神とします。神が主権者であり、人は神の主権に仕え守られるのです。
神はこの戦いをどのように見ておられるのでしょう。この戦いの中で、神の民イスラエルが神に思いを向け、神の民である自覚を持つように促しておられるように思います。
自分たちのための戦いではなく、神の約束を信じ、信仰によって神の約束のもの(イスラエルに与えると約束されたカナンの地)を守るために戦っているのです。
神は、イスラエルに、カナンの地の相続を認められたアブラハムの子孫であることを自覚させ、彼らのうちに神のことばを思い起こさせ、神への信仰を築き上げておられるように思います。
では、神は、パレスチナに対して、非情なお方なのでしょうか。いいえ、神は、彼らのうちに、真実な心の者を御覧になって、神の救いを求めさせるために許しておられるようです。
彼らの中には、イスラエルを憎む人々がいます。ハマスを憎む人々もいることでしょう。彼らは、敵がだれかではなく、いのちが守られ救われるために、目に見えない助けを求めることでしょう。
彼らの中で死亡した者のうち、神(創造主)の憐れみを受けて、永遠のいのちを得る人々もいると思います。
人は目に見える現象で判断します。そして、人道主義者たちは、イスラエルを糾弾します。しかし、これらすべてのことの背景に、永遠のいのちを与える方(最後の裁きをされる全能の神)がおられることに、思いが至る人は多くないでしょう。
神は永遠のお方です。永遠の目線でご覧になられます。たとい、イスラム教徒であっても、神を求める真実な心の者に出会って、永遠のいのちを与えることをされるお方です。
神の思いは、いつも永遠です。永遠に生きるにふさわしい真実な者に永遠のいのちを、また、神の御心に敵対し永遠に赦されない罪の者に永遠の死と裁きを与える神が、すべてを御覧になっておられます。
パレスチナの苦しみは、パレスチナにいるアラブ人の救い(永遠のいのち)のためであるのかも知れません。
神は、世界を御覧になっておられます。人道主義に走る者と、神のことばに留まる者との違いを明らかにされるときも用意しておられます。
人道主義者の心は、神に立ち向かいます。人を思う良い心から始まった思想なのに、自分自身の心から神への信頼と信仰を排除しているのです。
神は、アブラハムに与えると約束された地(カナンの地〈現イスラエル〉)をめぐる戦いで、どちらの味方として立っておられるでしょうか。
神は、「イサクの子孫(ユダヤ民族)がアブラハムの子孫と呼ばれる。」と仰せられました。また、ユダヤ民族と契約を結び、神の祭司の国民として約束の先祖の地(カナンの地)に国を与えられたのは、神御自身です。
今、世界は試され、それぞれ、ひとり一人が自分で選んだ道にはいっていきます。
神は、神のことばのうちに留まる人々に、永遠のいのちを用意しておられます。
人は、目の前の苦しみを見ます。そして、苦しみを許される神を恨みます。神に敵対する人々は、ひとつとなって、神のものに怒りを燃やし、訴えます。
しかし、憎しみに土台を置く人道主義から、愛は生まれるのでしょうか。人々が愛だと思っている、人から出た人道主義の愛は偽りの愛です。なぜならば、永遠のいのちを奪うものだからです。
人から出た偽りの愛は、永遠のいのちを得させる神の愛から引き離し、永遠の死と滅びへと導いて行くのです。
神から出た真理の愛は、永遠のいのちを与えます。神の愛は、人を思いやるその場限りの愛ではありません。とこしえに続く永遠のいのちなのです。神は、永遠のいのちを得させる「とこしえの愛」をお持ちなのです。