ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

キリスト者の役割

 

 「イスラエルの人たちよ。アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち返りなさい。そうすれば、主は、あなたがたに残された、アッシリヤの王たちの手をのがれた者(ユダヤ人たち)たちのところに、帰って来てくださいます。

 あなたがたは、父祖の神、主に対して不信の罪を犯したあなたがたの父たち、兄弟たちのようになってはいけません。あなたがたが自分の目で見ているとおり、主は彼らを恐怖に渡されたのです。

 今、あなたがたは、自分の父たち(先祖)のようにうなじのこわい者であってはなりません。主に服従しなさい。主がとこしえに聖別された聖所にはいり、あなたがたの神、主に仕えなさい。そうすれば、主の燃える怒りがあなたがたから離れるでしょう。

 あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたの兄弟や子たちは、彼らをとりこにした人々の憐れみを受け、この地に帰って来るでしょう。あなたがたの神、主は、情け深く、憐れみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」(歴代誌第二30:6-9)

 

 王の命令は、エフライムとマナセから、ゼブルンの地に至るまで、町から町へと行き巡りました。

 ユダヤ人たちは、このメッセージを受けながら、物笑いにし、嘲りました。

 

 「ただ、アシェル、マナセおよびゼブルンのある人々はへりくだって、エルサレムに上って来た。

 また、ユダには、神の御手が臨み、人々は心を一つにして、主のことばのとおりに王とそのつかさたちの命令を行なった。

 こうして、多くの民が第二の月に、種を入れないパンの祭りを行なおうとエルサレムに集まった。おびただしい大集団であった。

 彼らは立ち上がり、エルサレムにあった(偽りの神々の)祭壇を取り除き、すべての香の壇を取り除いて、キデロン川に投げ捨てた。

 そして、第二の月の十四日に、過越しの生贄をほふった。(イスラエルの神に忠実でなかった)祭司とレビ人は恥じて身を聖別し、全焼の生贄を主の宮に携えて来た。

 彼らは、神の人モーセの律法に従って、おのおのその定めの場所に立った。祭司はレビ人の手から受け取った血を注いだ。

 集団の中には、身を聖別していなかった者が多かったので、レビ人が、きよくないすべての人々のために、過越しの生贄をほふる役目につき、これを聖別して主にささげた。

 民のうち大勢の者、すなわち、エフライムとマナセ、イッサカルとゼブルンの多くの者は、身をきよめておらず、しかも、しるされているのと異なったやり方で、過越しの生贄を食べてしまったので、ヒゼキヤは、彼らのために祈って言った。

 『慈しみ深い主よ。このこと(神の規定どおりに行なっていない不義の罪)の贖いをしてください。

 彼らは、心を定めて神、彼らの父祖の神(イスラエルの神)、主を求めたのですが、聖なるもののきよめのとおりにはいたしませんでした。』

 主はヒゼキヤ(王)の願いを聞かれ、民を癒された。」(歴代誌第二30:11-20)

 

 キリスト者は、神の御子イエス・キリストを信じる人々です。神が遣わされた救世主イエス・キリストを信じ、契約の民イスラエルよりも先に安息(神との和解)にはいった者です。

 

 神との契約を持たない無割礼の異邦人は、神の子羊イエスの贖いの血で罪が赦されて、神の御子イエス・キリストを信じる信仰によって、神に義とされました。

 神の律法の外にいた異邦人は、神の御子イエス・キリストの御名によって、神のひとり子が与えられる「新しい律法」を受けました。

 神の子羊イエスを信じないイスラエルの知ることのない、「とこしえの律法」です。

 

 神は、アブラハムの子孫イスラエルに、モーセの律法を与えられました。モーセの律法によって、レビ人が立てられ、神がお定めになった祭司と預言者と王によって、イスラエルは治められました。

 

 アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの契約は、血肉によって受け継がれました。

 神は、血肉のイスラエルに、イスラエルの父祖であり、信仰の父であるアブラハムに約束された「地上のすべての民族、国々の祝福となるひとりの子孫【神の御子キリスト】」、また、イスラエル民族の指導者であり、イスラエルに神の律法を与えたモーセがイスラエルに命じた「イスラエルが聞き従わなければならないモーセのようなひとりの預言者【神の子羊キリスト】」、そして、イスラエルのダビデ王に約束された「とこしえのイスラエルの王となるダビデの子【ユダヤ人の王キリスト】」、すなわち、約束のメシア「神のひとり子イエス・キリスト」を遣わされました。

 

 しかし、血肉のイスラエルは、ユダヤ人から出たキリスト「ナザレのイエス」を信じませんでした。

 

 頑ななイスラエルを憤った神は、イスラエルの思いを暗くし、神の御子イエスのことばを聞いても悟ることができず、また、イエスのみわざを見てはいるが決してわからないようにされました。

 イスラエルの民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっていました。

 

 神は語っておられました。

 「それは、彼ら(イスラエル)がその目で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしに癒されることのないためである。」(使徒28:27)

 

 神の祭司の国民として、神が造られたイスラエルは、その不信仰の罪によって、自分たちが十字架につけたナザレのイエスが、神のひとり子であることを悟ることができませんでした。

 それゆえ、血肉のイスラエルは、文字の律法、すなわちモーセの律法の下にいます。血肉のイスラエルの大勢の人は、神に遣わされたキリストによって新しく結ばれた、新しい律法【とこしえのイスラエルの律法】を知りません。

 

 神は、神のひとり子キリスト・イエスにあって、とこしえの契約をお与えになられました。その契約は、血肉のイスラエルの垣根を越え、キリストが授けられる真理の御霊によって、永遠のいのちを得るとこしえのイスラエルと結ばれます。

 肉の割礼は血肉のイスラエルのものです。とこしえのイスラエルは、御霊の信仰によって、心に割礼が施されます。

 

 アブラハムが信仰によって義とされたと同様に、神は、神の御子イエス・キリストを信じキリストの御霊を受ける人々を義とされます。彼ら(キリストを信じる異邦人)は、血肉のイスラエルではありませんが、アブラハムの信仰の子孫です。

 神の御子イエス・キリストの御名によって義とされた彼らは、永遠のいのちを受けて「とこしえのイスラエル」とされるのです。なぜならば、神の御子イエス・キリストは、「とこしえのイスラエルの王」だからです。

 

 第二歴代誌三十章には、神のことばにへりくだったアシェル族、マナセ族、ゼブルン族のある人々がエルサレムに上って来て、過越しの祭りを行なったことが書かれています。

 

 偶像礼拝の罪を犯しているイスラエルの中から集まって来たユダヤ人のうち、エフライム族とマナセ族、イッサカル族とゼブルン族の多くの者は、身をきよめておらず。神の定めと規則にのっとっていませんでした。

 

 イスラエルの神は聖なる神です。神の定めと規則から外れたものを受け入れられません。

 

 霊なる神を恐れるヒゼキヤ王は、神に祈りました。

 「慈しみ深い主よ。わからずに規則に外れきよくないことを行なったことの贖いをして、その罪をお赦しください。

 規則や定めを正しく知らない彼らは、心を定めて神、彼らの父祖の神、主を求めたのですが、聖なるもののきよめのとおりにはいたしませんでした。」

 すると、主なる神は、ヒゼキヤの願いを聞かれ、民を癒されました。

 

 終わりの時には、神道や仏教などキリスト教以外の人々にも、悔い改めへと導く真理の御霊を注がれることでしょう。

 

 神は、キリストを、罪の贖いの血を流された神の子羊として彼らに知らされるでしょう。キリストは、神のひとり子としてではなく、世の罪を取り除く神の子羊として現われてくださるのでしょう。

 

 しかし、彼らはイエスのことばも、イスラエルとの契約のことも知りません。キリスト教ではタブーとされるような言動をとることもあるでしょう。

 キリスト者は、その間違いを指摘しそれを正すのでしょうか。

 

 いいえ、ヒゼキヤのように、慈しみ深い主の憐れみにすがり、知識のない彼らの落ち度を赦してくださるように執り成し、御霊の教会の兄弟姉妹として迎え祝福することではないでしょうか。

 

 日本人は、キリスト教以外の日本人の救いの御計画を信じて、彼らの救いと、また、まことの神を知らずに来た彼らの贖いときよめのために執り成すことが重要だと思います。

 

 それぞれの民族、国々において、キリストの民でない同胞の人々の贖いを主に願い、神に受け入れられる聖なるものとされることを執り成すことは、最初に救われた私たちキリスト者の務めではないでしょうか。

 

 彼らを祝福して、彼らが神の子羊の愛と赦しのみわざを信じ永遠のいのちを得て、私たちの神の安息のうちにはいるように執り成す祈りは、イエス・キリストの御名がゆだねられたキリスト者の役割なのでしょう。

 

 それぞれの国において、キリスト者は、偶像を捨て御霊と交わり、いよいよ自分自身をきよめ、キリスト者にゆだねられた御救いの働きを担ってまいりましょう。

 

 ヒゼキヤの願いを聞かれ、民を癒された主は、イエス・キリストの御名によって主に祈るキリスト者の願いを聞いてくださいます。そして、同胞の民を贖い、癒してくださることでしょう。

 

 使徒ヨハネは言います。

 「愛する者たち(主イエス・キリストにある兄弟姉妹)。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また(私たちが)求めるものは何でも神からいただくことができます。

 なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。」(ヨハネ第一3:21,22)