ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神が与えた一粒の麦

 

 「まことに、まことに、あなたがた(弟子たち)に告げます。一粒の種がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

 自分のいのちを愛する者はそれ(いのちを得させる信仰)を失い、この世でそのいのち(御霊を消す自分の肉のいのち)を憎む者はそれ(信仰)を保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:24,25)

 

 一粒の麦は、良い実として生きるのか、自分に死んで土に入り新しいいのちを生むのか。

 良い実として神の栄光を現わす生き方もあります。自分に死んで新しいいのちを生む生き方もあります。

 

 一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。ひとりのいのちです。

 しかし、もし地に落ちて自分自身に死ねば、その人のうちにある生かす御霊は、多くの人のいのちとなり、豊かな実を結びます。

 イエスは、その道を歩まれました。

 

 携挙にあずかるのは、生きたまま天に上げられるように、と神に選ばれた忠実な神のしもべたちです。その信仰と正しい生き方が神に喜ばれている人々です。神とともに歩んだエノクのようです。

 彼(エノク)は肉体に死ぬことなく、神に移されて、見えなくなりました。

 預言者エリヤは、一台の戦車と火の馬とが現われ、竜巻に乗って天へ上って行きました。エリヤもまた、生きたまま、天に移されました。

 エノクは、終わりの日に携挙される人々の初穂のようです。

 

 私たちの主イエス・キリストは、肉体に死んで死から甦り、復活のからだで天に上られました。エノクやエリヤのように、生きたまま天に上られませんでした。

 

 神のひとり子であられ、完全に神に聞き従い十字架の死まで聞き従い通した正しい人、そして、一度も罪を犯されなかった全き信仰の「人の子イエス」は、エノクやエリヤよりも完全な人であるのに、死を通られました。

 

 イエスの死は、私たちのためです。すべての人は罪人です。エノクやエリヤのように神とともに歩み、正しく生きる人はわずかです。

 

 奴隷の家エジプトから連れ出され、荒野で神の律法をいただき、神と契約を結んだ神の選びの民イスラエルのことを、思い出しましょう。

 エジプトから連れ出された成人男性は、約六十万人いました。アロンもモーセもいっしょにいました。

 ところが、荒野生活に飽き飽きした人々はアロンとモーセにそむき、食べ物のあった奴隷生活を懐かしみ、奴隷の家エジプトに戻る計画を胸に抱いたのです。

 

 神は、民を怒り、エジプトを出たとき成人男性だった人をみな、荒野で死に絶えさせて、約束のカナンの地(ユダヤ民族の父祖アブラハム、イサク、ヤコブが眠る先祖の地、現イスラエルの地)には入らせない、と誓われました。

 荒野で彼らは死に絶えました。彼らは約束の地に入ることはありませんでした。

 

 アロンも荒野で死に絶え、モーセもまた、荒野で死に絶えました。

 神には残りの者がいました。民が神から心が離れて神にそむくときも、神に信仰を持ち続け、神に忠実であったユダ族のケナズ人エフネの子カレブと、モーセの従者でありエフライム族(イスラエル十二部族〈ユダヤ民族〉の長子であるヨセフ族)のヌンの子ヨシュアのふたりです。

 

 神は、エジプトから出て来た成人男性約六十万人のうち、カレブとヨシュアのふたりを残し、神が導き入れられる約束のカナンの地に連れ上るモーセに代わるイスラエルの指導者としてヨシュアに油を注ぎ、そして、荒野に暮らすイスラエルの民(ほとんどがエジプト時代を知らない民)を連れ上らせられました。

 

 エジプトを出た約六十万人の成人男性のうち、約束の地に入ったのは、ヨシュアとカレブのたったふたりでした。

 

 アダムとエバから始まった人類の歴史の中で、多くの人が生まれ死んでいったでしょうが、生きたまま天に上げられたのは、エノクとエリシャのふたりだけです。

 彼らは、神に喜ばれる信仰を持っていたのです。

 信仰がなければ、神に喜ばれません。

 

 イエス・キリストは、彼らのような信仰を持つことのない、あとの残りの人々を救うために、来られました。

 

 イエスは、自分自身の肉を裂き、血を流して、彼らに信仰を与えられたのです。

 イエスは、罪を犯されませんでした。しみも傷もしわもない、全き人でした。神への聖なる献げ物として、ご自身をささげられました。

 イエスは、信仰を持つことのできない、さ迷う罪人のために、ご自分の信仰を与えられたのです。

 

 イエスは、尊い麦でした。神の国を生む力のある、いのちに輝く麦です。

 しかし、イエスは栄光に輝くご自身のいのちを、罪の中で死んでゆく罪人に与えられました。死んでゆく罪人の罪をきよめ、彼らに輝くいのちを分け与えて彼らを生かすために、贖いの血を流して、イエスは死なれました。

 

 肉体のイエスは死にました。全き人の子は、世を救うために死なれました。

 イエスは、ご自身の輝くいのちと神に愛される尊い生き方を誇りとして、一つのままの麦でいることに固執されません。

 

 なぜならば、父なる神が、地に落ちて死ぬことを望まれたからです。もし死ねば、豊かな実を結ぶことになります。

 神の御旨に忠実なイエスは、神を選びました。ご自分の栄光を捨て、罪人として人々に嘲られ、ののしられ、苦しめられることを選ばれたのです。神に呪われた者として木(十字架)にかけられる惨めな死に、身をささげられました。

 

 「まことに、彼(神の子羊イエス)は私たち(罪人)の病を負い、私たち(罪人の滅びと呪い)の痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

 しかし、彼(神の子羊イエス)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。

 彼(イエス・キリスト)への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。(イエスの十字架の死は罪人の懲罰を身代わり、罪人の罪を赦し、神との和解を成し遂げ、イエス・キリストの血は、私たちを贖い、永遠の死と滅びから救い出してくださった。)」(イザヤ53:4,5)

 

 イエスは自分のいのちよりも、世を愛されました。自分のいのちを捨ててでも、世が滅びないことを願われました。世が救われることを切に望まれたのです。

 

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(神から離れてしまった神の被造物を神のみもとに戻すためです。)

 御子(イエス・キリスト)を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名(神の御子イエス・キリスト)を信じなかったので、すでにさばかれている。(

神の御子イエス・キリストを信じない者は、最後の裁きにおいて、永遠の死と滅びが宣告されます。)」(ヨハネ3:16-18)

 

 イエスの愛は、神の愛とひとつです。神の愛は、イエスの愛とひとつです。

 神は、罪人を救うために、ひとり子を世にお与えになられました。イエスは、罪人を救うために、十字架の死まで神に従われました。

 

 神の子羊イエスの死は、豊かな実を結びます。

 神は、イエスを死から甦らせ、永遠のいのち(御霊)をお与えになられました。イエス・キリストは、永遠に生きるメシアです。

 神の聖霊によって、「復活のいのち」と、「新しい霊のからだ」の「新しい人が創造」されました。

 

 イエスのいのちは、生かす御霊となって甦られました。

 聖霊のバプテスマを授ける権威を持つキリスト・イエスは、イエスを信じる人々に、死から甦られたキリストの「生かす御霊」を分け与えられます。

 また、世の終わりのときには、真理を求める人々に、「真理の御霊」を注がれます。

 

 ひとりの正しい人の死は、多くの魂を生かします。イエスのうちにあった信仰と輝くいのち(真理の御霊)を宿す人(イエスの忠実なしもべ)の死は、多くの魂に信仰を分け与えます。

 

 義人(神に義とされる人)は、信仰によって生きるのです。人を生かす永遠のいのちを得させる信仰は、一粒の麦となられたイエスの信仰によって、分け与えられたものです。

 

 イエスの信仰を持つ人々の死もまた、一粒の麦となって、豊かな実を結ぶのです。