「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。
主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。」(詩篇127:1,2)
ユダヤ民族の父、ヤコブの十二人の息子のうち、妻ラケルの長子ヨセフに長子の権利が与えられました。長子は、二倍の祝福を受け継ぎます。それゆえ、ヨセフのふたりの息子マナセとエフライムはそれぞれ、ヤコブの子に数えられて、ヨセフには、マナセ族とエフライム族の二部族が与えられました。神は、ヨセフの長子として弟のエフライムを選ばれたので、エフライム族はヨセフ族と呼ばれます。
マナセ族はイスラエルの十二部族に加えられ、イスラエルの中で領地を得ました。十二に分けられた領地に、レビ族のレビ人がそれぞれに分け与えられた領地に住み、彼らには領地が与えられません。神に仕える働きが与えられたレビ人の相続地は、主御自身なのです。
「(神は、長子である)ヨセフの天幕を捨て、エフライム族をお選びにならず、ユダ族(キリストの系図であるダビデ王が出た部族)を選び、主が愛されたシオンの山を、選ばれた。
主はその聖所を、高い天のように、御自分が永遠に基を据えた堅い地のように、お建てになった。
主はまた、しもべダビデを選び、(父エッサイの家で羊飼いであったダビデを)羊のおりから彼を召し、乳を飲ませる雌羊の番から彼(羊飼いダビデ)を連れて来て、御民ヤコブ(ユダヤ民族)と(神が遣わされたモーセを信じて、モーセとともに奴隷の家エジプトから出て来て、荒野で神と契約を結んだ)御自分のものであるイスラエル(ユダヤ民族と在留異国人)を牧するようにされた。
彼(ダビデ王)は、(神を恐れる)正しい心で彼ら(イスラエル)を牧し、英知の手(全能の神の導き)で彼ら(イスラエル)を導いた。」(詩篇78:67-72)
ヤコブの妻レアの長子ルベンを退け、妻ラケルの長子ヨセフをイスラエルの長子とされたのが「主」ならば、ヨセフの天幕(北イスラエル王国、すなわちアッシリア捕囚され離散した十部族)を退けてヨセフの長子の権利を受け継いだエフライム族を選ばず、バビロン捕囚から帰還した南ユダ王国(王家の二部族)のユダ族を選び、ユダ族からキリストを起こされたのも「主」です。それゆえ、イエス・キリストは「ユダの獅子」と呼ばれます。
神が選ばれたユダ族から、主は、エッサイの子である羊飼いダビデを選び、彼(ダビデ)に王の油を注ぎ、イスラエルの王とされたのも「主」です。
神に選ばれたダビデ王は神を恐れる正しい人であって、ダビデ王は主に尋ねつつ、主の民イスラエルを導きました。
神がイスラエルに約束されたメシアは、ダビデの子として、このダビデ王の子孫から生まれました。
ダビデの町ベツレヘムで生まれたイエス・キリストが、イスラエルにモーセを通して神が命じられた「イスラエルが聞き従わなければならない預言者」であり、聖霊のバプテスマを授けるキリストの油を注がれた「メシア」であり、千年王国を統べ治められる「とこしえの王」です。
神は、この約束のメシア、すなわち、神の御子イエス・キリストを王とする、とこしえの神の国「七つの御霊の教会」を建て上げられます。
とこしえの神の家の基礎は、神がお与えになったイスラエルの契約であり、礎の石は死から復活されたイエス・キリストの信仰です。
とこしえの神の家は、永遠に生きておられる主によって建てられます。人の手によって建てられるのではありません。永遠のいのちを与えられる生かす御霊によって、建てられます。
肉の人間が建てるものは、地上の建物です。永遠のものではありません。主の御霊が建てるものは、御霊によって創造される天上の建物です。朽ちることもさびることもない、とこしえのものであり、主の御手のわざです。
神の国と言いながら、人間の力で建て上げられたものはむなしく、その働きに携わる人々は神の賞賛を得ることなく、建てる者の働きはむなしいのです。
人間の知識や知恵、人間の努力や熱心によって、神の家を守っても、その家は地上に属するものであって、天上に上ることはありません。天に残されないもののために戦い、思いを尽くし精神を尽くして守っても、守る者は神の賞賛を得ることなく、守る者の見張りの働きはむなしいものです。
主(生かす御霊)が建てる家(御霊の教会)の中にいないならば、早く起きて、また夜遅くまで熱心に主に仕えても、神のために犠牲を払い慎ましく生き労したとしても、神に賞賛されることなく、それはむなしいのです。
神は、人間の力で神の国を完成されないからです。神の国は、神の御霊によって完成されます。
キリストが授けてくださる真理の御霊に生かされ教えられて、御霊とともに歩むことが、神の家の働きです。
なぜなら、主は主の御霊のうちにある者には、眠っている間に、彼らの必要を備えることをされる、恵み深い父なのです。
「主は愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」(詩篇127:2)
「 (生かす御霊の信仰の)望みがあるので、(御霊によって新しく造り変えられた)あなたは安らぎ、あなたは(神の霊に)守られて、安らかに休む。」(ヨブ11:18)
神の御霊によって新しく造られた新しい人は、真理の御霊がお与えになる信仰と希望と愛によって安らぎ、また、真理の御霊によって守られ、永遠のいのちを得てとこしえの安息にはいるのです。
人の手によるものではありません。
とこしえのものは、神から発し、神によって成り、神に至るのです。
パウロは言います。
「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられた(神の)しもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのこと(働き)をしたのです。(アポロもパウロも、おのおの神から授けられた働きをしたのです。)
私(パウロ)が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
それで、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださるの神なのです。
植える者(キリストの福音を宣べ伝える者、福音の種を蒔く者)と水を注ぐ者(神のことばを教え養い育てる者)は、一つ(神の働きをする一つのもの)ですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。
私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」(コリント第一3:5-9)
神が建てられる神の家は、火の中をくぐり、きよめられます。
火のバプテスマを通って、各人の働きの真価が試されます。
「もしだれかの建てた建物(働きの実)が残れば、その人は報いを受けます。
もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
あなたがたは神の神殿(聖霊の器)であり、神の御霊が宿っておられることを知らないのですか。
もし、だれかが神の神殿(御霊の器)を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。
(生かす御霊、すなわち真理の御霊を宿す)あなたがたがその神殿です。」(コリント第一3:14-17)
主の御霊が建てたのではない地上の神の家(人の働き)は焼かれます。
主の御霊によって建てられた家(御霊にあってなされた神の働き)はとこしえに残ります。
真価を試す火(試みの火、信仰を試す火のバプテスマ)を通して、なお残る神の働きに携わった、神に忠実なしもべ(聖霊の器)は、その正しい行ないにより信仰の勝利者として、子羊の婚宴に招かれる幸いな人々です。
千年王国の時代の後に、天上の子羊の婚宴に招かれた彼らの住まいは、「新しい天」に設けられます。
もしだれかの建てた建物(神の働き)が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。神の働きそのものは残らなくても、信仰を持ち続けた信仰の勝利者は、永遠のいのちを得ます。
千年王国の時代の後に、地上の祝宴「千年王国のキリストの王国」に招かれた彼らの住まいは、「新しい地」に設けられます。