神の御子イエス・キリストは言われました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(イエス)のもとに来なさい。」(マタイ12:28)
人生に疲れ果てた人、生きるのがつらくてしかたのない人、人知れず苦しむ人に、イエスは優しく語りかけられます。
ひとりで悩む人は窮地に直面したとき、どこに助けを求めるでしょうか。わからないのです。何かにすがりつきたいのだけれど、掴むものがなくて心はさまようばかりです。
誰が私を助けてくれるのでしょうか。親が思い浮かぶ人は幸いです。友に心を寄せる人は幸いです。
しかし、ひとりで悩む人は意外に多いのです。あれこれ捜し求める余力のある人はまだ、望みを持っています。
しかし、他人に打ち明けることのないまま、ひとりで苦しむ人は、重荷を負うことに疲れて先に進めません。
真面目な日本人は、自分の問題を自分で解決しなければならない、と考えるのでしょうか。
「自分はひとりだ。」と人が思っている時にさえ、心配しておられる方がすぐそばにおられます。それは、その人自身の中にあります。その人のいのちは、生きようとして踏ん張っています。
母の胎から生み出し、そのいのちを育んで来られた根源のいのち(神)がともに苦しんでくださっています。
神は、人を造られた創造主です。すべての人のまことの父です。すべての人は、この方によって造られ、いのちを得ているのです。
神は、ひとりひとりの魂にそれぞれの体験をさせて、まことのいのち(死なないいのち、死んでも甦り神のみもとに帰る祝福された永遠のいのち)を得るようにと望んでおられるのです。
神は、ひとり子に肉体を造り、人と同じ姿(人の子)にして、地上に遣わされました。
人の子となられた神のひとり子イエス・キリストは、すべて疲れた人、重荷を負っている人を慰め、彼らに新しい力を与えて苦しみから解放し、自由の喜びを得させて、とこしえの安息(天の御国)に招かれます。
人は、自分で負いきれない重荷や苦しみ、悲しみや孤独や嘆きに遭遇すると、救いを求めて救いの君へと辿る道に導かれる傾向があります。
人生の失敗や失望や絶望は、この世に隠された御救いの入口へといざなってくれます。
神が救いに定めた人々がおります。神は、その人々の前に、目に見えない壁を造り、彼らの心をこの世の望みから引き離して、知らなかった世界、目に見えず隠されている世界の入口へと導かれます。
問題の解決に奮闘しているうちは、見出すことのできない、目に見えない入口です。すべての望みが閉ざされて、いよいよ力尽きて落胆すると、暗闇の中でうずくまっているような状態です。
ここですべてのことを自分の手で終わらせようとする人もいます。
しかし、神が救いに定めておられる人々は、あきらめません。自分の人生に見切りをつけて自分で終わらせません。誘惑されそうになっても、引き止めるものがあります。彼のうちにあるいのちです。いのちは生きようとしているのです。
光が見えず疲れ果てている人、労している人、抱えきれない問題に窮しひとりで重荷を負っている人、その姿は本当の姿ではないのです。
神は、人を愛と平安と喜びに満ちた者として造っておられます。この世の苦しみを負っている姿は、神御自身の痛みです。
神とともに人を造られた神のひとり子キリスト・イエスは、人のあるべき本当の姿を知っておられます。人間は偽りに惑わされて、いのちががんじがらめにされています。生きることが苦しい、というのは、悪魔が負わせた罪を背負ったからです。罪の結果なのです。
罪とは、神のことばから外れ、神にそむいたことです。その結果、肉体を持つ人は神との平安を失いました。神を恐ろしい方だと思い、神の愛を信じられず、神から遠く離れます。いのちの根源から遠く離れたいのちは、糸の切れた凧のように、この世に翻弄されます。
イエスは、彼らをとこしえの安息に導き入れるために来られました。不安も恐れも、苦しみも嘆きも、悲しみも失望も神からのものではありません。悪魔が見させる偽りの姿です。
イエスは、人が造られた時、創造主が「非常に良かった。」と満足された人の姿を御存じです。
イエスは、この世の人間の姿が偽りであることを御存じです。イエスは、地上に来られて、悪魔の偽りに騙されているこの世の覆いを取り除いて、被造物の本来の姿を知らせられました。
ユダヤ人は、自分の目でイエスを見、自分の耳でイエスのことばを聞きました。肉なるものは、イエスを理解することができませんでした。彼らには、この世の覆いがかかっています。光のない世界に生きているのです。
真理の光は、霊の目で見、霊の耳で聞くものです。霊が開かれていなければ、悟ることができません。
肉の目で見、肉の耳で聞き、肉の思いで理解する者には、隠されています。彼らは、真理の光を見ていないのです。
神は、この世の思いで暗くなっている人々の思いに、啓示の光を届けるために、彼らの心の殻を打ち破られます。それは、痛みを伴う苦しみです。
痛みと苦しみでうつむく者には見出せません。しかし、目を上げる者は、「すべて労する者、重荷を負う者、我に来たれ。」と仰せられるいのちを見出すのです。
思いの殻が砕かれたとき、肉では見ることのできなかった希望の光が差し込みます。
その希望は、単なる望みではありません。疲れ果てさせる重荷を取り除いて自由を得させるために、この世の君(悪魔)と戦い、そして、私たちにいのちを与えるために、ご自分のいのちを与えてくださった神のひとり子です。
神のひとり子イエス・キリストは、悪魔が奪い去った神のことばを取り戻し、神と和解させてくださいました。
イエスは、すべて労する者、重荷を負う者に、優しく語りかけられます。「わたしのところに来なさい。」
その招きに応じる人々は、人を本来の麗しい姿に立ち返らせて愛と希望と喜びに満たし、人をとこしえの安息に入らせるために死んでくださった主ご自身に会うのです。
「わたしのところに来なさい。」と招かれる主イエス・キリストは、こう仰せられます。
「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
人を造られた創造主であられる神は仰せられます。
「わたし(罪の贖いをする創造主)が疲れた魂を潤し、すべてのしぼんだ魂を満たすからだ。」(エレミヤ31:25)
イエスは言われました。
「だれでも(心が、魂が)渇いているなら、わたし(イエス・キリスト)のもとに来て(真理の御霊を)飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川(真理の愛)が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)
イエスは良い羊飼いです。羊のいのちを、ご自分のいのちをかけて悪い狼(騙す者、そそのかす者)から守られます。(イエス・キリストのくびきを負って、神の子どもの歩みをするいのちは、永遠のいのちを奪われることがありません。)
イエスはまことの羊飼いです。さまよえる羊たちを集めて、義の道(御霊とともに歩む信仰の道)に導き、天の神のみもとへと連れ帰ってくださるのです。
そして、神が創造される「新しい天と新しい地(主の家)」に住まわせられます。羊飼いイエス・キリストに聞き従う羊たちは、永遠の安息を得るのです。
すべて労する者、重荷を負う者は、神が遣わされた救世主イエス・キリストのところに行き、キリストのお与えになる真理の御霊によって学ぶならば、魂に安らぎが来ます。
安らぎを得た魂は、イエス・キリストを見たことはないけれども(イエス・キリストを)愛しており、いま見ていないけれども(イエス・キリストが神の御子救い主であることを)信じており、ことばに尽くすことのできない、(天上の)栄えに満ちた喜びにおどり、神に愛されているという信仰と神への信頼と平安を得るのです。