ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

いのちの木のある都

 

 黙示録には、千年王国の様子が書かれています。

 都の中に神殿はないようです。

 「それは、万物の支配者である、神であられる主と、子羊(イエス・キリスト)とが都の神殿だからである。(全能者にして主なる神と子羊とが、その聖所なのである。)

 都には、これ(都)を照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、子羊が都のあかりだからである。(都は、太陽や月がそれを照らす必要がない。神の栄光が都を明るくし、子羊が都のあかりだからである。)

 諸国の民が、都の光(神の栄光の輝き)によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。(諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。〈都に上ることができるのは、光栄なことなのです。〉)

 都の門は一日中決して閉じられることがない。(都の門は、終日、閉ざされることはない。)そこには夜がないからである。

 こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。(人々は、諸国民の光栄と誉れとをそこに携えて来る。〈神と子羊(イスラエルの王イエス・キリスト)を礼拝することが許されているのは、訪れる者の誉れなのです。〉)

 しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。子羊のいのちの書に(名が)書いてある者だけが、はいることができる。(都の門は終日、閉じることはないですが、いのちの書に名のない者が、その中にはいることは許されないようです。すなわち、都にはいることができる者は御霊の教会に加えられる者であり、永遠のいのちを得ることができる者です。なぜなら、都の中にいのちの木があるからです。都にはいることは、光栄なことなのです。)」(黙示録21:22-27)

 

 「御使いはまた、私(ヨハネ)に水晶のように光る(輝いている)いのちの水の川を見せた。(見せてくれた。)それ(このいのちの水の川)は神と子羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸(両側)には、いのちの木があって、十二の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民を癒した。(いのちの木は十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民を癒す。)

 もはや、呪われるものは何もない。神と子羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え(神を礼拝し)、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名(生ける神の名、すなわち、父の名と子羊の名)がついている。(彼らの額には御名がしるされている。)」(黙示録22:1-4)

 

 千年王国の都の中に、いのちの木があります。いのちの木は、永遠のいのちを得させるいのちの実をみのらせます。

 

 エデンの園には、いのちの木と善悪を知る知識の木とがありましたが、千年王国の都には、いのちの木があるのみです。善悪を知る知識の木はありません。もはや、呪われるものは何もないのです。

 

 千年王国の千年の期間、悪魔は底知れぬ穴に閉じ込められて封印されています。悪魔はいません。惑わす者はいません。悪魔が存在しないので、悪魔の働きはありません。神が主権者であり、神が支配される世界、罪が生まれることのない世界です。

 

 創世の初め、エデンの園にあったいのちの木は一つでした。

 万物の終わり、千年王国の都の中にあるいのちの木は、いのちの水の川の両側にあります。つまり、複数本のいのちの木があるようです。

 

 エデンの園では、いのちの木と善悪を知る知識の木があり、悪魔もいて、いのちを選ぶか、死を選ぶかの二択の道がありました。

 

 千年王国には、悪魔は存在せず。複数本のいのちの木があるようです。御救いしかありません。十二種の実がなります。十二種とは、ユダヤ民族十二部族を現わすのでしょう。

 

 ノアの時代、ノアが選ばれ、神の定められた水の滅びのときにノアの家族が救い出されたように、神は、アブラハム、イサク、ヤコブを選び、彼らと契約を結び、彼らの子孫イスラエルを選ばれました。

 すなわち、神はヤコブ(イスラエル)と契約を結び、ヤコブの息子十二人の家族(ユダヤ民族十二部族)を、終わりに定めてある火の裁きから救い出されるのです。

 

 ノアの家族の救いを見て、神の救いを捉えるならば、世界が火で滅ぼうとも、神は、選びの家族イスラエルを救われるということになります。

 千年王国の都の中にある十二種の実のなるいのちの木は、まさに、イスラエルの十二部族の救いのためにあるのではないでしょうか。

 

 イスラエルが奴隷の家エジプトから連れ出されたとき、モーセにしたがってエジプトの地から出て来たのは、ヤコブの家族だけではありませんでした。救いを求めて、イスラエルの中に混じって子羊の血(裁きを過ぎ越されるために家の門柱とかもいとに塗られた子羊の血)に守られた、寄留者たちがいたのです。彼らは、在留異国人です。

 

 荒野で、神はイスラエルと契約を結び、イスラエルは神の律法を受けて神の民イスラエルとされました。その中には、ユダヤ民族十二部族だけではなく、在留異国人たちもいたのです。

 神の民の中には、すでに、ユダヤ民族以外の異邦人たちもいっしょにいた、ということになります。ユダヤ民族の神の掟の中にいる彼らは、異邦人ではありません。イスラエルの中の在留異国人として、割礼も受けます。

 

 神は、ユダヤ民族のみを救われるのではありません。イスラエルの神の掟の中に入る者たちをイスラエルの中に置き、イスラエルの御救いの約束の中に入れてくださるのです。

 

 イエス・キリストを信じる異邦人たちは、まさに、この在留異国人なのでしょう。救いはイスラエルとともにあり、ユダヤ人から出るのです。それゆえ、イスラエルに高ぶってはならないのです。

 イスラエルを捨てて、在留異国人だけを救うということはあり得ないことです。在留異国人たちは、イスラエルを助けるために召されているのかも知れません。

 

 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」(ヨハネ1:1、2)というみことばを連想しました。

 

 これは、使徒ヨハネが、神のひとり子イエス・キリストを証言した聖句です。神の御子キリストは、人として来られる以前から、神とともにおられたのです。

 

 「ことば」の部分を、神が契約を結び、神の民として選ばれた「イスラエル」に置き換えてみると、「初めに、神の民イスラエルがあった。(それ以外の民族は、神から遠く離れ、死と滅びに向かっていました。)イスラエルは神の民であった。この神の民イスラエルであるユダヤ民族は、諸民族の初めに、またすべての国々の初穂として、神とともにいた神の民です。」

 

 それゆえ、神の御子イエス・キリストを信じて神の民とされる人々は、イスラエルの王(神の子羊イエス・キリスト)の国民とされるのです。

 

 アダムの罪により、エデンの園のいのちの木への道は、閉じられました。

 神の子羊イエス・キリストの血により、世の罪が取り除かれ、生かす御霊である聖霊が注がれると、永遠のいのちを得る新しい人が創造されました。

 

 神は、新しい創造の新しい人によって、閉じていたいのちの木への道を解放されます。罪が赦されて御霊によって新しく生まれ「真理の御霊」の住まいとされた、御霊を宿す神の子どもたち(聖霊の宮)が現われたからです。

 

 千年王国は、エデンの園の回復と思っていたら、エデンの園よりも素晴らしいところです。呪いの木(善悪を知る知識の木)はありません。悪魔はいません。

 いのちの木は十二種の実をならせるのです。

 

 いのちの木の実を食べる人々には、国があり、王があります。

 「とこしえのイスラエルの王」に仕える国民(贖われた十二部族のとこしえのイスラエル)となるのです。

 

 とこしえのイスラエルの王によって、とこしえのイスラエルは完成します。

 千年王国の千年間はとこしえのイスラエルを完成する期間であり、イスラエルの王(神の子羊キリスト・イエス)は新しい創造を完成させる国王です。