ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

内住の御霊に合わせる

 

 ヨハネは、キリストに遣わされた御使いの告げる黙示によって、キリストの栄光の御姿を見ました。

 

 栄光の主キリストは、七つの星と七つの金の燭台を持っておられます。七つの星は七つの教会の御使いたちであり、七つの燭台は七つの教会です。

 すなわち、キリストの手のうちにあるのは、七つの御霊の教会です。これらの七つの御霊の教会が、神が新しく創造される新しい天と新しい地に住む、天の御国の神の子どもたちなのです。

 

 ヨハネは、天に上り、天にある御座と、その御座に着いておられる方(父なる神)を見ました。御座に着いておられる方は美しく輝く光のようです。

 その御座の前には、七つのともしびが燃えていました。神の七つの御霊です。

 

 神の御救いの壮大なプロジェクトにより、神のひとり子は、子羊キリストの姿となりました。また、聖霊は、神の御座の前で燃える七つのともしび、すなわち、七つの御霊の姿となられました。

 

 神の新しい創造は、天の有様をも新しくしました。

 父なる神、子なる神、聖霊の三位一体の神は、神のひとり子のために土の塵から造った「人」を、天に迎えて神のひとり子を長子とする神の御子の兄弟(神の子ども)とするために、新しい体制を創造されました。

 

 神のひとり子は、土から創造した「人」に永遠のいのちを得させるために、「神の子羊イエス」となって「贖いの血」を流されました。

 神の聖霊は、神の御子イエスが神の子羊の血で贖った人々を、「神の子ども」に新しく造り変えるために、「生かす御霊」となって、彼らのうちに住まわれました。贖われた人のうちに住む「内住の御霊」となられたのです。

 

 神の御子イエスは、神の子羊イエスを信じる信仰をもってキリストを信じる人々を、御霊を宿す器とされました。こうして、キリスト・イエスは、「聖霊の宮」を創造されました。

 神のひとり子が新しく創造された「聖霊の宮」に、聖霊が「生かす御霊」となって住まわれます。

 

 生かす御霊は、死に勝利したイエス・キリストの御名によって、永遠のいのちを得させてくださいます。

 生かす御霊は、キリストの御霊であり、真理の御霊です。イエスのことばを思い起こさせ、真理を教えられます。

 

 真理の御霊は、御霊を宿す「御霊の器」を新しく造り変えて「神の子ども」とするために、きよめのわざを施し、いのちの道へと導かれます。それは、イエスが告げておられた「火のバプテスマ」です。

 肉の性質を砕き、御霊によって新しく生まれる御霊の性質をかたち造られます。

 

 多くの人は、神の子羊イエス・キリストの救いを信じて、生かす御霊を受ける「御霊の器」とされますが、信仰によって真理の御霊を受ける人は多くはありません。

 神の子どもとされる特権を持ちながら、神の子どもに新しく造り変えてくださる「真理の御霊」をお迎えする人は多くはありません。

 

 生かす御霊を信仰によって受け取り、喜びに満たされながら、きよめを望まない人々もいます。神よりも自分や世を愛する人々です。

 

 イエスがバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けて水から上がられると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、イエスの上に留まられました。

 

 「イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」(マタイ4:1)

 

 御霊の働きは、神の御心の道へと導き、神の御心にかなった「神の子ども」に造り変えることです。

 

 神のひとり子は、肉体を持つ「人の子」として来られました。神のひとり子の栄光の御姿ではありません。罪人と同じ姿になられたのです。

 

 さて、生かす御霊は、肉体を持つ罪人と同じ姿の神の御子を、永遠に生きる新しい人に創造しなければなりません。

 肉の姿は、老いて朽ちます。死が定まっているからです。死をもたらしたのはだれでしょう。神のひとり子を憎み神に敵対する悪魔ではありませんか。

 

 御霊は、肉の人を支配する悪魔の試みを受けさせるために、人の子イエスを荒野に導いて行かれました。イエスは、悪魔の誘惑のことばに神のことばをもって応戦し、肉体を持つ肉の人のうちに足場を持つ悪魔のわざを退けられました。

 

 イエスは、悪魔のことばにそそのかされたアダムではありませんでした。神のことばとひとつの第二のアダムです。最初のアダムは、蛇のことばに騙されて神のことばから外れましたが、神が神の民イスラエルに遣わされた第二のアダムは、神のことばとひとつでした。

 

 イエスは、御霊に導かれた荒野で、悪魔に勝利を取られました。

 人の子イエスを死から甦らせて、生かす御霊を授ける新しい人「キリスト」に造り変えた聖霊は、御霊の器のうちに宿る「生かす御霊」となって、イエスの御思いを成し遂げられます。

 

 イエスの御思いは、イエス・キリストを信じる人々に生かす御霊を与えて、彼らがイエスの歩んだ真理の道(いのちの道)を歩むことです。また、彼らが、生かす御霊によって肉に死に、御霊によって新しく生まれる新しい人、すなわち、悪魔に勝利する新しい創造の神の子どもに造り変えられることです。

 

 イエスが荒野に導かれたように、イエスの弟子(イエスを信じ従うしもべ)たちもまた、御霊によって荒野に導かれ、イエスの歩まれたいのちの道(世の人々に理解されない神の子どもたちの道)を辿るのです。

 

 奴隷の家エジプトから出たイスラエルが、荒野に導かれたことを思い出しましょう。

 荒野は、神がともにおられ、神御自身が私たちの人生の主となられる特別な場所です。人間の知恵や努力や知識ではどうすることもできない苦難の時ですが、神にへりくだることを学び、信仰によって生きるための備えの時です。

 

 神は、イスラエルに、荒野での体験を覚えて仮庵の祭りを記念するように、と命じられました。仮庵の時は、神の愛を知るための特別な時です。そして、仮庵の祭りは神の愛を思い出す喜びの時です。

 

 神は愛する者たちを、必ず、荒野へと導かれます。悪魔に打ち勝ったイエスにならって、悪魔の策略を破る信仰の勝利者となるようにと、信仰の良き種を彼らのうちに置くためです。

 

 信仰は、人それぞれ異なります。しかし、それぞれに分け与えられた御霊は、ひとつの御霊です。

 

 また、御霊は、信仰を完成するために、火のバプテスマを授けられます。金を取り出すために、炉に入れるのです。かなかすを燃やし、朽ちることのない金のような純粋な信仰を取り出すためです。

 

 キリストの手の中には、七つの御霊の教会があります。ひとつのイスラエルが十二の部族に分けられるように、ひとつの御霊が、七つの教会に分けられます。

 ユダヤ民族は十二の部族に分かれていますが、ひとつのイスラエルです。また、御霊の教会は七つに分かれていますが、ひとつの教会です。七つの御霊の教会は永遠のいのちの教会です。

 

 ある人が、新しい天と新しい地について、高層ビルのように縦型であり、上の階の人は下の階に行き来できるが、下の階の人は上の階に上がることはできない、と言っていました。

 

 地上の物質世界のような階段やエレベーターなどの移動ルートはありません。神の子どもたちはみな、テレパシーで意思伝達し、瞬間移動する霊のからだだからです。

 

 私は、すべての人が同じ平面上に暮らす現在の地上のようではないことを聞いて、納得しました。

 

 七つの教会は、それぞれの教会によって住む場所が分けられていると思いました。

 しかも、一つ一つの教会もまた、何層もの階に重なり合っていると思いました。「七を七十倍赦しなさい。」と仰せられる神ならば、一つの教会を七十階に分けておられることも考えられると思います。

 

 天の御国では、信仰が一つと言われています。地上の信仰者が同じひとりのイエス・キリストを主と告白しているのに、信仰がひとつだと感じることがありません。みな、それぞれに信仰のかたちがあるように思います。

 

 しかし、同じ階に属する人々の信仰は、まるで、ひとりの人であるかのようにひとつの信仰なのでないのかと思います。

 ですから、今、信仰が一致しないな、と思って考え込むことはないと思います。一人一人がそれぞれ、うちなる御霊に合わせたとしても、七つの御霊の教会に分かれ、それぞれの教会がまた幾つかの階層があると考えるならば、無理もないことです。

 

 私たちは、ほかの人の信仰に合わせる必要はないと思います。それぞれが分け与えられている御霊に従うしかありません。

 御霊に従うとき、自分自身に分け与えられている賜物の道に導かれ、成すべきことを知らせてくださることでしょう。

 

 みなそれぞれ違いますが、集合すると、神の望み通りのキリストのからだに完成することでしょう。

 

 神が設計し、キリストの御霊(神の御霊)が創造し完成されるからです。