イエスは、十字架につけられるためにドロローサの道を歩まれました。イエスを信じる女たち、すなわちイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行きました。
「イエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。
『エルサレムの娘たち。わたし(ナザレのイエス)のことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どものことのために泣きなさい。
なぜなら人々が「不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。」と言う日が来るのですから。(子を持つ母親は、子どもの悲惨を思って、身を切られる思いを体験するからです。なぜならば、終わりの日には、反キリストが自分に従わない者たちを残虐な死に定めるからです。お腹をすかして泣く子どもを哀れに思い、なんと多くの人が救い主イエス・キリストの御名を否むことでしょう。)
そのとき、人々は山に向かって、「われわれの上に倒れかかってくれ。」と言い、丘に向かって、「われわれをおおってくれ。」と言い始めます。(自分たちが救い主イエス・キリストを裏切って、信仰を捨てたことに気づいた時には、もう遅いのです。彼らは、神の裁きを恐れ、ただ、神から身を隠したい、と願うのです。)
彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。(反キリストの霊に支配される人々が、永遠のいのちを得させられる神の御子イエス・キリストをこのように扱うならば、キリストを否んで永遠のいのちを失った〈いのちの書から名を消された〉棄教者や背教者に、どんな終わりが待っていることでしょう。)』」(ルカ23:28-31)
イエスは、黙示録に啓示された第六の封印が解かれたときの状況を語られたのです。
「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かって言った。『私たち(キリストを裏切る背教者、反キリストを恐れてキリストを否み、また、悪魔に従って聖徒たちを迫害した、信仰の敗北者たち)の上に倒れかかって、御座にある方(裁き主、すなわち、イエス・キリストの父)の御顔と子羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。』」(黙示録6:15-17)
私たちの主イエス・キリストは、苦しみを受け、十字架で血を流されました。イエス・キリストの弟子である私たちもまた、師であるキリストにならい、十字架の道を歩むのです。
永遠のいのちをお与えになる救い主イエス・キリストでさえ、迫害され、そして殺されました。いのちある者が、死を帯びた人々に迫害されるのです。
肉の人は、御霊の人を迫害します。それは、御子イエス・キリストに起こったことで明らかになっています。
イエス・キリストは、永遠のいのちを与える「いのちの木」です。そして、イエスは、贖われた人々に永遠のいのちを得させるために、生かす御霊をお与えになります。
生かす御霊を受けた人々は、永遠に生きる神の子どもとされるために、真理の御霊により新しい創造を受けます。御霊によって生まれた彼ら(新生した彼ら)は、生かす御霊を宿す聖霊の器となります。
生かす御霊を持つ人が、神に感謝し祈り賛美をするならば、もはや、聖霊の器ではありません。聖霊の宮となるのです。聖霊の宮は、かしらなるイエス・キリストの御思いに仕えます。
彼らは、いのちの木であられる神の子羊イエス・キリストにつぎ合わされた、キリストのいのちが流れる生木の枝となるのです。
しかし、救い主イエス・キリストに贖われていても、生かす御霊を受けていない人はいのちのない枯れ木のままです。イエス・キリストの御名によって、自分たちはいのちの木に繋がる者であると信じていても、生かす御霊の証言は得られません。
父なる神の御前であかししてくださるのは、生かす御霊なのです。生木の枝の人は、生かす御霊によって、肉に死に、御霊によって生きる者とされたあかしを持つ人なのです。
生木には、いのちがあります。それゆえ、実を結ぶのです。
神は、義の実を結ぶ彼らに、永遠のいのちを得させ、義の栄冠をお与えになるのです。
「わたし(イエス・キリスト)はまことのぶどうの木であり、わたしの父(イエス・キリストの父、すなわち天の神)は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ15:1,2)
実を結ぶ生木の枝(生かす御霊を受けた人々)は、もっと多くの実を結ぶために、父が、刈り込みをなさいます。(試練の中をくぐらせなさいます。)
肉の思いを追いやり御霊とともに歩む者とするために、父なる神は、多くの試練を通して懲らしめられます。御自分の子どもとして扱っておられるのです。
「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
主は(御自分の子であるから)その愛する者(神が永遠のいのちを得させたいと思われる人)を懲らしめ、(神が天の御国に)受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(へブル12:5,6)
試練は主の懲らしめであり、それは、私たちが枯れ木ではなく、神の御霊を宿す生木だから、懲らしめられるのです。
生木であるから、義の実を結び、神に永遠のいのちを得させられるのです。