ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

宗教は人を救わない

 

 ユダヤ人は神から聖書を与えられた民族です。

 神に祭司の国民として選ばれたユダヤ民族は、地に属する他の民族とは異なり、天と繋がる唯一の国民です。

 

 ユダヤ民族は、天地万物を創造された全能の神と契約を結び、神の民として地上に御救いをもたらす役割が与えられています。

 

 しかし、神と契約を結び神の約束を持つユダヤ民族は、最も大切な神の命令を守りませんでした。

 

 ユダヤ民族に神の律法を授けたモーセの命令です。

 「神である主は、あなたがたのために、私(モーセ)のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟(ユダヤ民族)からお立てになる。(神に召されてイスラエルに遣わされ、イスラエルを奴隷の家エジプトから救い出したモーセのように、神から救世主〈キリスト〉の油を注がれてイスラエルに遣わされ、世の罪を取り除いて世の滅びから救い出す預言者〈キリスト〉をユダヤ民族の中から起こされる。)

 この方(キリスト)があなたがた(イスラエル)に語ることはみな聞きなさい。(モーセの与えた律法に聞き従うように、神が遣わされるキリスト〈神の御子イエス・キリストをさす〉に聞き従いなさい。)

 その預言者(神がイスラエルに遣わされるキリスト)に聞き従わない者はだれでも、(神と契約を結ぶ神の祭司の国民、すなわち神に選ばれた)民の中から滅ぼし絶やされる。」

 

 ユダヤ民族は、このモーセの命令を守りませんでした。

 ユダヤ民族は、神と契約を結ぶ民であるしるしの割礼を伝承し、モーセの律法(聖書)を守る民でした。

 しかし、聖書の預言どおり、ダビデの子孫ヨセフの許嫁の処女マリアの胎に宿り、ダビデの町ベツレヘムで生まれ、主の道を用意するバプテスマのヨハネに「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」と言われ聖霊のバプテスマを授ける権威を持つキリストであることを証言された「ナザレのイエス」を、モーセの命令に反してイスラエルは、神が遣わされたモーセのような預言者であることを認めませんでした。

 

 長い間、モーセが預言した、ユダヤ民族から現われるキリスト(救世主)を待ち望んでいたイスラエル。しかし、目の前にその救世主「神の御子イエス・キリスト」が来られているのに、ユダヤ人の目は閉じていました。

 

 ユダヤ人たちは、ナザレのイエスが神に遣わされた神のひとり子キリストであることを信じませんでした。

 イエスが語ることばは、神のことば。イエスの行なうわざは神のわざ。

 ユダヤ人たちは、イエスが病人を癒し、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせるのを見、イエスが天のことばを語るのを聞きました。

 イエスは、イスラエルの神を父と呼び、天の御国について、永遠のいのちについて解き明かしました。

 

 ユダヤ人たちの目は聖書の文字でおおわれており、耳はふさがっていました。

 ユダヤ人たちの信仰は、もはや、霊なる神と交わる信仰ではなく、聖書の文字の奴隷となっていたのです。

 

 ユダヤ人たちの目には、イエスのわざ(奇跡やしるし)は悪霊のわざとして映り、イエスのことばは騙す者の言葉に聞こえました。

 ユダヤ人の信仰が、信仰ではなく宗教となっていたからです。

 

 ユダヤ教という宗教になり果てたアブラハムの契約は、いのちを失っていました。いのちの主と交わることができなくなっていたのです。

 

 モーセに望みを置くユダヤ人たちは、モーセの「彼に聞き従わなければ神の選びの民の中から絶ち滅ぼされる」の預言の成就として来られた【神の御子イエス・キリスト】に、聞き従うことがありませんでした。

 

 神は、新しい契約を、神の御子イエス・キリストに託しておられました。なぜならば、モーセによるイスラエルとの契約「モーセの律法を守る事」は、神の子羊イエス・キリストによってことごとく成就されるからです。

 

 ユダヤ民族から出たキリスト・イエスは、モーセの律法を完全に守り、モーセの律法を完成されました。神は、完成したモーセの律法を古い契約とされ、神の民イスラエルに、新しい律法を与えられました。

 

 古い契約は、モーセ率いるイスラエルと、全能の神(アブラハムの神、イサクの神、イスラエルの神、すなわち、イエス・キリストの父であられる神)との間で結ばれました。

 新しい契約は、神の御子イエス・キリストと、イエスを「神の御子キリスト、私たちの主。」と告白する、新しい霊的イスラエルとの間で結ばれました。

 

 古い契約のしるしは、肉の割礼でした。アブラハムの血肉の子孫との契約です。

 新しい契約は、キリストがお与えになる聖霊のバプテスマであり、御霊による心の割礼です。アブラハムの信仰の子孫との契約です。

 

 モーセの律法では、良心を変えることができません。幾度も同じ罪を犯し、罪から解放されることができません。罪のための生贄も、礼拝する者の良心を完全にすることができません。それで、毎年罪のための生贄をささげなければなりませんでした。

 

 御霊による心の割礼は、御霊が住まわれてイエスのことばを思い起こさせ、、真理を教え、霊とまことをもって神を慕う新しい心を与えてくださいます。

 

 これが、地に属する人間の教えの宗教と、天に属する神に教えられる信仰との違いです。

 

 神のひとり子イエス・キリストを退けたイスラエルは、どうなりましたか。

 国を失い、諸外国に離散しました。神に罰せられたのです。

 神が遣わした神のひとり子キリスト・イエスを退けたイスラエルを、神もまた、退けられたのでした。

 

 「わたし(神)は、怒りをもって誓ったように、決して彼ら(神の御子イエス・キリストを信じず、神が遣わされたキリストに聞き従わなかったユダヤ人たち)をわたしの安息(天の御国)にはいらせない。」(へブル3:11)

 

 彼らは、荒野で神に逆らったユダヤ人の先祖の罪を犯したのです。

 神に罰せられたユダヤ人の先祖たちもまた、常に心が迷い(信仰が神に結びついておらず)、(神の仰せられる)わたしの道(いのちの道)を悟らなかったのです。

 

 さて、イエス・キリストがお与えになった新しい契約を結ぶキリスト教会は、どうでしょうか。

 イエス・キリストの命令に、聞き従っているのでしょうか。

 

 キリスト教会は、長い間、不信仰ゆえに神に捨てられたユダヤ民族を、嘲笑って来ました。もし、私たちも、不信仰と背きの罪を犯すならば、同じことが自分たちの身にも起こるとは考えていないのです。

 

 毎週教会で礼拝し、聖書を読み、お祈りをする私たちは、必ず救われる、と信じています。

 

 かつてのユダヤ人たちもそうでした。国を失い、神の民なのに、哀れでみじめでなものになるなんて、だれも想像しませんでした。

 また、そうなった原因が、神が遣わされたキリストを信じなかった不信仰と背きの罪にある、なんてだれが思うでしょうか。

 

 信仰とは、自分の霊で神と交わり、神を知り、神のことばに聞き従うことです。

 宗教は、人との交わりの中に身を置き、人から神のことを聞きます。

 

 キリストがお与えになる真理の御霊は、神との交わりを教え、「アバ、父。(天のお父様)」と神を呼ぶ神の子どもの新しい心を造り、いのちの道へと導かれるのです。

 

 神は、宗教がお嫌いです。

 それゆえ、天の御国にはいる人々を、人間の教えにはよらず、キリストがお与えになるバプテスマ(聖霊のバプテスマ)により与えられる「真理の御霊」によって、神のことばを与え、神のわざを成し、また、啓示の霊と祈りとをお与えになるのです。

 

 キリストの命令は、「わたし(イエス・キリスト)から聞いた父の約束(もうひとりの助け主である「真理の御霊」が与えられること)を待ちなさい。」(使徒1:4)です。

 

 イエスは言われました。

 「(神が遣わされたキリストへと導く、主の道をまっすぐにするバプテスマの)ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは(キリストが授けられる)聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:5)

 

 真理の御霊は、生かす御霊です。死んだものを生かす力があります。

 御霊がお与えになるものは宗教ではなく、いのちの道であり、信仰なのです。

 

 霊とまことをもって礼拝する信仰でなければ、天の御国にはいることができません。神に受け入れられないからです。

 霊とまことをもって礼拝する信仰は、天から遣わされた真理の御霊によって教えられ、御霊によって新しく造り変えられた者が天から受ける、恵みの信仰なのです。

 

 永遠のいのちと御救いは、生かす霊、真理の御霊のうちにあるのです。