ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

キリストの御霊を持たない者はキリストのものではない

 

 神がイエス・キリストの御名によって授けられる御霊は、生かす御霊であり、真理の御霊です。

 

 キリストの御霊であり、イエスのことばを思い起こさせ、真理を教える、もうひとりの助け主です。

 

 キリストが世を去られた後に、イエスを師と仰ぐ弟子たちが、師を失って孤児にならないようにと神が遣わされる、生かす御霊です。

 

 弟子たちは、イエスとともに歩みました。わからないことはイエスに尋ね、イエスのことばの意味が分からくても、イエスが彼らを守り安全に導かれたので、弟子たちの魂は安息していました。

 

 しかし、思いがけず(実は、イエスはご自分が弟子たちのもとを去って父〈天の神〉のもとに帰ることを事前に語っておられましたが、弟子たちはそれを理解していませんでした。すなわち、イエスははずかしめを受けて死に、三日目に甦る事を語られた時、弟子たちは動揺して、ペテロなどは「あなたにそんなことが起こるはずはない。」と否定していたのです。)イエスが捕らえられ、十字架につけられて、墓に入った後、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、戸を閉めて閉じこもっていました。

 

 「弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、(復活された)イエスが来られ(イエスが戸が閉まったままの部屋の中に立ち)、彼ら(弟子たち)の中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』

 こう言って(甦られた)イエスは、(ご自分の)その手と脇腹を彼らに示された。(十字架につけられたときのくぎの跡のあるご自分の手と脇腹とを弟子たちに見せられた。)弟子たちを教え導き守ってくださった彼らの師イエスが墓にはいり、望みを失い怯えていた)弟子たちは、主を見て(十字架で受けた手と脇腹の傷跡を見て主であることを知り、本当に主が甦られたことを確信して)喜んだ。

 イエスはもう一度、彼らに言われた。『(だれも奪い去ることのできない天の)平安があなたがたにあるように。父(天の神)が(天から)わたし(神の子羊イエス)を遣わしたように、わたしもあなたがた(イエスと同じ心を持つ)あなたがたを遣わします。(世の御救いのために父〈天の神〉が御子イエス・キリストを遣わされたように、イエスもまた、キリストの福音を世に広めるために、あなたがた〈イエスを救世主と信じるイエス・キリストの弟子たち〉を〈世を救う天からの使者として〉世に遣わします。)』

 そして、こう言われると、彼ら(弟子たち)に息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。』」(ヨハネ20:19-23)

 

 イエスがともにおられたとき、イエスは弟子たちの道のともしびでした。イエスがともにおられるから、彼らは世を恐れることがありませんでした。彼らは、まことの光を見ていたのです。

 イエスが墓にはいると、彼らはともしびを失い、希望も勇気をなくしました。しかし、復活のイエスに出会った弟子たちは、彼らが信じたナザレのイエスは、まことに神の御子キリストであったことを知り、イエスのことばが真実であることを確信したのです。

 

 しかし、その確信だけでは世の荒波に耐えられないことを御存じのイエスは、肉である弟子たちに、イエスのことばを思い起こさせ真理を教え、正しい道に導く御霊を受けるように、と言われました。

 彼らの宣べる福音を信じて新しく弟子に加わる人々のためにも、天の信仰を得て新しい人に造り変えられるためには、真理の御霊が必要なのです。

 

 復活のキリスト・イエスを目撃したのは五百人ほどです。彼らは、イエスのことばの成就の証言者です。彼らの信仰は体験があるから強いのです。

 彼らの証言を聞いて信じる人々には、その生きた体験がありません。しかし、御霊を受けるならば、まるで使徒たちの時代に居て復活のキリストを見た者であるかのように、鮮やかにキリストの復活を確信することができるのです。

 

 神は、世の救い主、キリストをユダヤ民族から出して、世を救う御計画を持たれました。そして、ユダヤ民族と契約を結び、彼らを神の祭司の国民とするために、ユダヤ民族に神の律法(モーセの律法)を与えて守ることを命じられました。

 その契約を持つユダヤ民族のうちに、神の約束どおり、キリスト(神の御子イエス・キリスト)が現われたのです。

 

 神が遣わされた神の御子イエス・キリストに聞き従って、ユダヤ民族は、世の御救いの働きを担うはずでした。

 しかし、ユダヤ人たちはそれを拒みました。神が遣わされた御子イエス・キリストを信じなかったのです。

 キリストを受け入れなかったユダヤ人たちは、キリストの福音を携えて世を救う者とはなりませんでした。

 

 天の神と平和の契約を持つユダヤ民族でも、神の御子イエス・キリストを「主」として受け入れない人々は、天との繋がりを失ってしまいます。

 

 神の御子イエス・キリストを「主」と告白する人々に、その平和の使命が任されました。キリストを信じる人々が、ユダヤ民族に託されていた働きを、イエス・キリストの御名によって担いました。

 もはや、御救いの約束はユダヤ民族だけのものではなく、すべての民族へと広められていったのです。

 

 イエスは弟子たちに「平安があるように。」と言われました。信仰があるようにではなく、天から下る「真理の御霊」がお与えになる平安があなたがたにあるように、ということです。

 

 信仰が、天の平安を保ち続けるのではなく、キリストがお与えになる生かす御霊が、取り去られることのない信仰と希望と平安を置いてくださるからです。

 御霊を受けるならば、自分のうちにはなかった確かな信仰と神に愛されている確信を得るのです。

 

 聖霊を受けるならば、私たちが赦す罪をキリストも赦され、私たちがそのまま残す罪をキリストも罪とされるのです。御霊を受ける私たちは、キリストと同じ思いを持つ御霊を受けているのであり、御霊によって、キリストの御名の権威を用いる、キリストの代理人のような存在とされます。

 

 御救いの約束を持つユダヤ人が、神の遣わされた神の子羊イエス・キリストを受け入れなかったことで、神の民から外れました。

 

 御救いの約束を持つキリスト者が、地上を去られたキリスト・イエスに代わるもうひとりの助け主、すなわち、神が遣わされる「真理の御霊」を受け入れない場合、キリストの御霊を持たずして、自分の力でキリストの代理人となるという見当違いなことをしてしまいます。

 

 神の御子イエス・キリストを持たないユダヤ人を、神は、民から滅ぼし絶やすと仰せられて神の民から外されたことを思い出しましょう。

 

 神の御子イエス・キリストの御霊を持たない者を、キリストは、ご自分のものだと思われるのでしょうか。

 人は、神が授けられる真理の御霊によって、天の使者の働きをするのです。

 

 キリストが天の父の右の座に座しておられる今、御霊を受けた私たちが、イエス・キリストの御名によって、キリストのことばを語り、キリストのわざを行ない、真理の御霊によって父なる神の栄光を、地上で現わしていくのです。

 

 御霊を受けることは、父と子と聖霊の三位一体の神とひとつとなり、新しい神の子どもに創造された神の家族となることなのです。