「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
(永遠の)いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13,14)とイエスは、ユダヤ人の群衆に語られました。
イエスは、イエスの父であられる天の神に遣わされて、神の契約の民イスラエルに来られました。イスラエルは、天の神によって「メシアを遣わす。」と約束された民族です。
メシアとは、滅びの世から救い出し、死と裁きと滅びの呪いを破り、永遠のいのちを得させてくださるキリストです。
神の御子イエスは、ユダヤ人たちに言われました。
「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日(永遠に生きておられる神のひとり子が救世主として、アブラハムの子孫のうちに来られるその時)を見ることを思って大いに喜びました。彼(アブラハム)はそれを見て、喜んだのです。」(ヨハネ8:56)
信仰の父アブラハムは、啓示によって、自分の子孫のうちに約束の救い主キリストが来られることを知り、また、そのくすしい栄光を見たと言うのです。
イスラエルは、その信仰の父アブラハムの血肉の子孫です。
そのイスラエルに、イエスは語られました。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこからはいって行く者が多い、と言われたのです。
この警告は、神の契約のない無割礼の異邦人に向かって言われたのではありません。
神と契約を結ぶ割礼の民である自分たちは、ほかの罪深い無割礼の民族と違って、神に選ばれた聖なる民である、と自負しているユダヤ人の群衆に向かって語られたのです。
神と契約を結ぶユダヤ民族だから、世の人々に隠されたいのちに至る門からはいり、救われるのではないようです。イエスは、ユダヤ人たちに、その道は狭く、いのちに至る門を見いだす者はまれだ、と言われました。
イエスは、続いてこのように語っておられます。
「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。」(マタイ7:17,18)
神の契約を結ぶユダヤ人に生まれ、割礼のしるしがあるから良い実を結ぶ良い木だとは言えないようです。
良い木であるか悪い木であるかは、ひとりひとりの言動、生き方によって決まるようです。
洗礼を受けたクリスチャンだから救われるというのではない、ということです。良い木として歩んだか、悪い木として歩んだかは、その人自身の歩みにかかっているのです。
心では神を恐れながら、神を信じない人々と同じ生き方をしているならば、その人の信仰告白もむなしいものとなります。
聖書の知識がないのに、愛と喜びのうちに生きるならば、神に、良い木であるとされるのです。彼らは良心によって神の律法を守る者なのです。
神は契約を守られる忠実なお方ですが、人間は自分の都合で簡単に契約を破る不忠実な者です。契約を破るのは、いつも、人の方です。
イエスは言われました。
「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(マタイ7:19)
神の裁きの基準は、神と契約を結ぶ民か、契約のない民か、ではないようです。契約があっても、契約を破るならば、契約を持たない者の方がよいのです。
神は、良い実を結ばない木を、みな切り倒されるとあります。そして、切り倒したその木を火に投げ込まれるとあります。すなわち、永遠の滅びに定められるということです。
神の民に数えられている人々の中でも、悔い改めの伴うへりくだった良い心のない者は、御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)を結ぶことがないのです。
神と契約のない民であっても、すなわち、聖書の神を知らない人々でも、愛のある人、あわれみ深い人、柔和な人、心のへりくだった人、悲しむ人、義に飢え渇いている人、心のきよい人、平和をつくる人、義のために迫害されている人などは、神に覚えられています。
彼らは、神に喜ばれるいのちの使い方をしているからです。彼らの心は、世のものにではなく、目に見えない永遠のものに向け、真実なものを慕っているからです。
イエスは言われます。
「わたし(イエス・キリスト)に向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父の御心を行なう者がはいるのです。
その日(最後の裁きの時)には、大勢の者がわたし(神の家の裁き主、贖いの神の子羊イエス・キリスト)に言うでしょう。
『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたし(イエス・キリスト)は彼らにこう宣告します。
『わたし(イスラエルの王であるイエス・キリスト)はあなたがたを全然知らない。不法をなす者(天の父の御心を行なわない者)ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23)
ヨハネが「先生の名(イエス)を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」と言ったとき、イエスは、何と言われましたか。
「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざ(イエスの御名によって働く神の霊のわざ)を行ないながら、すぐあとで、わたし(イエス)を悪く言える者はないのです。
わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
あなたがた(イエスの弟子たち)がキリスト(救い主)の弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」(マルコ9:38-41)
この箇所を読むと、イエスを神の御子キリスト救い主と信仰告白していない人であっても、イエス・キリストの御名によって祈るならば、神の霊が働くことがわかります。イエス・キリストの御名に、天の神から授けられた権威があるからです。
「主よ、主よ。」と言う者たちも、この権威あるイエス・キリストの御名を使って神の働きを見ました。
彼らは、イエス・キリストの御名によって預言をしました。また、イエス・キリストの御名によって悪霊を追い出し、イエス・キリストの御名によって奇蹟をたくさん行なったのです。
しかし、イエスは、彼らを全然知らない、と言われるのです。
預言や神のわざが、良い実ではないのです。預言も奇蹟や悪霊追い出しなどのわざは、イエス・キリストの御名の力であって、彼らの実ではないのです。
天の神に神の家を裁く権威を与えられているイエスは、彼らに「不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と宣告されました。
神の御心を行なうということは、心の問題のようです。
主は、預言者サムエルに仰せられました。
「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたし(神)は彼を退けている。(わたしは)人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル第一16:7)
預言や悪霊追い出しなど、神の人でなければできないような事をしても、神は、人が驚くようには驚かれません。
パウロは言います。
「御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝(神よりも大事に思うものが心を占めている事も含む)、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。
前にもあらかじめ言ったように、私(パウロ)は今も(イエス・キリストを主と告白する)あなたがたにあらかじめ言っておきます。
こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ5:18-21)
イエスは、ユダヤ人たちに語られました。
パウロは、イエス・キリストを信じる人々に言っているのです。
イエス・キリストにある信仰の兄弟、また、キリストの血肉の兄弟であるユダヤ人たちに憐れみをかけることも、神の御心にかなったことなのです。
天の御国に名が記された彼らに憐れみをかける人、水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがないのです。
天の御国の鍵を持ち、永遠のいのちを得させる権威を持つ神の子羊イエス・キリスト、神の家(神の子どもたち)を裁く裁き主なるイエス・キリストが、「そのような人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」と言っておられます。
今、身魂磨きにいそしむ神道や仏教の人々にも、神は、永遠のいのちの用意がある様です。
天の御国は、イエス・キリストの父なる神(天の神)の御心を行なう者(心砕かれ、へりくだった者、新しい心の良い実をならす良い木)がはいるからです。