ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の願い

 

 神には、ひとり子があります。神を「アバ、父。」と呼ぶ、唯一の子どもです。彼に代わる子どもはいません。

 

 神のひとり子は、神と等しい神性を持つ神格者です。神に仕える御使いとは異なります。しかし、子どものうちは御使いより秀でた存在とは言えません。神のふところにいて安息しておられるだけです。

 

 しかし、彼は確かに、神の大切なひとり子です。彼に代わる者はおりません。彼は、神の愛に抱かれた「神のことば」でした。父とひとつです。父とひとつであり、神のひとり子としての神格をお持ちの方です。

 

 御使いたちは、神の子と呼ばれますが、神格を持っているわけではありません。神格をお持ちの父なる神や聖霊と同様に、神格をお持ちの子なる神(神のひとり子)にも仕える者です。

 

 天使長ルシファーは、神格を持っているもののまだ主権のない子どもである神のひとり子よりも、神のひとり子に仕えている御使いの方が、神に役立つ有能なもののように思った瞬間があったのでしょう。

 

 天使長であるルシファーのもとには、大勢の天使たちが仕えています。神から受けたことを、自分のもとにいる天使たちに命令すれば、すぐさま従います。ルシファーは、天使長という立場にあって、支配する喜びを知る者でした。

 

 ルシファーは、神から「暁の子、明けの明星。」と呼ばれていたようです。非常に麗しく、天使たちから慕われ、希望とされる存在だったのではないでしょうか。

 

 しかし、その麗しさ、また天使たちの望み(人間でいうところの人望)が、ルシファーを迷わせました。

 

 神のひとり子よりも、自分のほうが主権者にふさわしいと思うようになってしまったのです。子どもである神のひとり子になぜ、「暁の子」と呼ばれる大天使ルシファーが仕えなければならないのか。

 神のひとり子が大天使よりもまさっているのは、神格だけなのです。しかも、子どもであるうちは、その神格による権威も機能することがありません。父なる神の庇護を受けている者です。

 

 神が神のひとり子のために造られた国民イスラエルに高ぶり、神に退けられて滅んだアッシリアの王の高慢に、ルシファーの罪が映し出されています。

 

 「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。

 私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。私の手は国々の民の財宝を巣のようにつかみ、また私は、捨てられた卵を集めるように、すべての国々を集めたが、翼を動かす者も、くちばしを大きく開く者も、さえずる者もいなかった。」(イザヤ10:13,14)

 

 ルシファーは、自分を誇り、その誇らしげな高ぶりによって、神のひとり子の神格を蔑みました。ルシファーは、神のことばであるひとり子の神格を恐れる者ではなく、自分を主張する者となったのです。

 そして、仕えるべき神格者の神のひとり子よりも、天使長の自分のほうが賢く、知恵ある者、力ある者であると高ぶったのです。

 

 創造主であり、全能者であられる神は仰せられます。

 「あなた(ルシファー)は心の中で言った。

 『(私は、子どもである神のひとり子に仕えることに留まっているような者であろうか。彼よりも賢く、知恵があり、力がある成熟した者ではないか。)私は天に上ろう。

 神の星々(すべての被造物)のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山(大王の都)にすわろう。密雲の頂に上り(すべての栄光の極みに立ち)、いと高き方(神)のようになろう。』

 しかし、あなたは陰府(よみ)に落とされ、穴の底に落とされる。(創造主であられる「神のことば」である神のひとり子に高ぶり、すべての被造物の頂点になろうとした天使長ルシファーは、神に罰せられ、全能者によって、天から追放されて穴の底に落とされるのです。)」(イザヤ14:13-15)

 

 ルシファーの麗しさや賢さを、神も認めておられました。

 しかし、その麗しさや知恵や力が、ルシファーを神のことばから外し、陰府(いのちの輝きのない死の世界)へと落とし、また穴の底に落とされる結果を生みました。

 

 神のひとり子は、自分から何かをする者ではなく、父なる神の御思いを知らせる神のことばなのです。神のひとり子は、父なる神から決して外れません。自分自身を賢い者として、自分の手の力に頼む者ではありません。自分を知恵ある者だと高ぶることはないのです。

 

 神のひとり子なのに、自分自身の神格をもって、ほかのものの上に立とうとはされません。

 御子は、神が置かれた立場に従順です。父なる神の栄光を喜び、自分の領域を知り、へりくだった者です。決して神より高くなろうとはされません。自分のおるべき場所を知っておられるのです。

 

 しかし、神格を持たない天使長ルシファーは、自分の領域を守らず、自分のおるべき場所を捨てました。神と神のひとり子に仕えなければならないのに、神よりも高くなろうとしたのです。

 

 「(それゆえ)主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき場所を捨てた御使い(天から追放された堕天使)たちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗闇の下に閉じ込められました。」(ユダ6)

 

 堕天使たちは、天から追放されることを厭いませんでした。彼らは、神よりも高くなりたかったのです。天にあれば、神がおられるので、自分が頂点に立つ支配者になることができません。

 しかし、天から出て闇にあれば、闇の王者になることができるのです。そして、神の被造物をおのれの物のように操り、支配することができるのです。

 

 堕天使たちの望みは、高くなることです。その極みが、世の終わりの時に現われます。

 堕天使長の悪魔は、反キリストに悪魔の権威を授けて、自分を神とします。そして、世の人々を悪魔礼拝者とするのです。

 神に背く者は、神よりも高いものになりたいという心を持つ者です。それは、天使長ルシファーが抱いた心です。

 

 神のひとり子は、父よりも高いものになりたいという心のない者です。父を愛し、全き信頼で安息しておられます。

 

 父なる神は、愛するひとり子に肉体を造られました。

 それは、エデンの園から追放した罪人、すなわち、いのちの木への道を閉ざされた罪人の行く末(悪魔と同じ刑罰を受けて、悪魔のために用意した永遠の火の池に投げ込まれる裁き)を憐れまれたからです。

 

 神は、肉体を持つひとり子を罪の身代わりの生贄の子羊として屠り、贖いの子羊の血によって、神に背いた罪人の罪を取り除かれました。

 それは、御救いを求めて子羊の贖いを信じ、自分の罪を言い表して悔い改める人々の罪を赦し、永遠のいのちを得させるためです。

 

 神の願いは、人が賢くなることでも、知恵深くなることでも、また力ある者となることでもありません。

 

 神のひとり子は、人の子として地上を歩まれるときにも、神に愛された者でした。神の御子イエスは、自分の神格を頼みとされませんでした。ただ、父を頼みとされたのです。

 

 神の御子イエス・キリストは、父なる神の栄光を求め、神の栄光を現わすために従順に仕えられました。天上において神のふところで安息しておられたひとり子は、地上でみごとに、神に信頼する生き方を学び全うされました。

 

 「キリストは、神の御姿であられる方(神格を持つ方)なのに、神の(ひとり子の)あり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも(父なる神の主権にへりくだり)従われたのです。

 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:6-9)

 

 天において御使いに仕えられる神の御子であった神のひとり子は、地上で、ご自分を卑しくし、仕える者となられ、従順を学ばれました。

 

 神の子羊イエス・キリストは、神が満足される「人の子」として完成されました。完成した「完全な人の子」となられたキリストは、私たちに、天に帰る道を開いてくださいました。神との和解の道、いのちの道です。

 そして、天に帰る人の生き方を、私たちに示してくださったのです。

 

 私たちは、完全な人の子イエス・キリストを見て、神に受け入れられる人は、どのように歩むのかを学ぶのです。

 キリストは、神のことばにへりくだり、忠実に聞き従い通されました。そして、キリストの歩まれたいのちの道を歩んで永遠のいのちを得るようにと、私たちひとりひとりに、真理の御霊を分け与えてくださるのです。

 

 私たちは、キリストが授けてくださった、もうひとりの助け主である「真理の御霊」によって教えられ、御霊に導かれていのちの道を歩み、神の子どもに造り変えられ、新しい人に創造されるのです。

 新しく創造された人は、永遠のいのちを得て天の御国にはいるのです。

 

 神のひとり子が神の御姿を捨てて、ご自分を無にして、人間と同じようになられたように、神は、人間に、自分の肉を無にして(殺して)、キリストと同じように、御霊によって生まれ、神の子どもとされることを願われます。

 

 自分を卑しくし、死にまで従われた神の子羊イエスに、神は、聖霊のバプテスマを授けるキリストの権威と、主権と光栄と国とをお与えになりました。

 

 神は、キリストにへりくだり、自分を無にし、御霊にゆだねる人に、永遠のいのちと神の御国をお与えになられます。

 

 神の願いは、神の御子イエス・キリストを信じて永遠のいのちを得て、私たちの魂が救われることです。

 人が生かされている目的は、神が用意されたいのちの道(十字架の道)を見いだし、永遠のいのちを得ることなのです。

 

 「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。(抵抗せず、なま板の鯉となって、「主の御心のままに。」と申し上げなさい。)神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(ペテロ第一5:6,7)

 

 悪魔のように、自分の力で高くなることではありません。

 「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(ペテロ第一5:5)