ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

救い主は世の初めから定まっていた

 

 「人の子(神御自身が「救い主キリスト」とお定めになられた神のひとり子)が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼(キリスト)は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

 そうして、王(イスラエルの王イエス・キリスト)は、その右にいるものたちに言います。

 『さあ、わたしの父(イスラエルの神)に祝福された人たち。世の初めから、あなたがた(神の御子の主権にへりくだり、神のことばと神の御心に忠実な人々)のために備えられた御国を継ぎなさい。

 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸であったとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気したとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』(マタイ25:31-36)

 

 しかし、彼らは自分たちがいつそのようなことをしたのか、覚えがないと言うのです。

 イスラエルの王であられるキリストは言われます。

 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟(人の子イエス・キリストの同胞であるユダヤ民族のユダヤ人)たち、しかも最も小さい者(名もないユダヤ人)たちのひとりにしたのは、わたし(キリスト)にしたのです。」(マタイ25:40)

 

 キリストに選び分けられた羊たちは、自分たちの行ないが神に覚えられた行ないであったことを知りません。それは、彼らの生き様であったのです。

 彼らは、神に気に入られようとして、策を練っていたわけではありません。また、救われるために、キリストに近づいたのでもありません。自分のいのちを守るために信仰告白したのではありません。

 ただ、イエスを愛したのです。そして、イエスへの愛が、知らず知らずにかたちとなって現われていたのでしょう。

 

 また、イスラエルの王であられるキリストは、左に置いた山羊たちに言われます。

 「呪われた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。

 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、乾いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。」(マタイ25:41-43)

 

 自分たちの行ないを覚えていなかった羊たちとは反対に、しっかりと覚えていました。彼らは、自分の救いのために、イエス・キリストの御名を利用していただけでした。

 キリストは、自分たちを救ってくれたなら、それでよいのです。キリストを愛する思いは、さらさらありません。人を救うことは、キリストの役目であって、私たちはその任務を果たす手助けをしてやっているのだ、というくらいに強気です。キリストのために苦しむことなんか、真っ平ごめんです。

 

 彼らは、自分たちはイエス・キリストの御名を信じると告白をした者であり、何の抜かりも無い。救われるべきであると主張します。

 

 しかし、イスラエルの王キリストは、答えて言われました。

 「まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。(すなわち、おまえたちは、自分たちのいのちを神の国のためではなく、自分自身のために使い、自分の得となることを求めて世の人々と同じように生き、神の子羊イエス・キリストのようには生きなかったのです。)」(マタイ25:45)

 

 神は、世の初めから、天の御国と永遠の火とを用意しておられたようです。

 エデンの園で人が罪を犯す(神のことばに背いて、永遠のいのちである神のことばから外れる)と、すぐさま、神は、人の子の存在を宣言されました。

 

 「わたし(神)は、おまえ(人を騙した蛇、獣の子)と女(女から生まれる人の子)との間に、また、おまえの子孫(神に敵対する悪魔の支配下の獣〈邪悪な者〉)と女の子孫(アダムの子孫人の子)との間に、敵意を置く。

 彼(女から生まれる人の子キリスト)は、おまえ(悪い者)の頭(悪魔)を踏み砕き、おまえ(獣)は、彼のかかと(ヤコブ、すなわちイスラエル)にかみつく。」(創世記3:15)

 

 神は、罪人を悪魔の手から救い出すキリストの存在を明らかにしておられます。

 肉体を持つ人の子として、処女の女から生まれる神のひとり子イエスを「救世主キリスト」としてお定めになられたのです。

 

 ユダヤ人の王として、イスラエルに遣わされた神の御子イエス・キリストをユダヤ人は否み、退けました。

 しかし、キリストは、ユダヤ人の手で処刑された十字架の上で、父なる神に向かって叫ばれました。

 

 「父よ。彼ら(祭司の民ユダヤ人)をお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

 

 神が預言者たちを通して語っておられたキリストを待ち望んでいたイスラエルに、約束どおり、神の子羊キリスト(罪を贖い、世の罪を取り除く、人となって来られた神のひとり子)が遣わされたのに、ユダヤ人たちは十字架につけたナザレのイエスが、神に遣わされたキリストであることがわからなかったのです。

 

 神は神のひとり子キリストの祈りを聞かれました。神は、決してユダヤ人たちをお見捨てにはなりません。

 彼らはキリストを生んだ民族です。世界を救う民です。

 

 神は、イスラエルの父祖アブラハムが生まれる前から、イスラエルを御覧になっておられました。イスラエルは、キリストのからだなのです。

 

 神が、「彼(人の子キリスト)は、おまえの頭(悪魔)を踏み砕き、おまえ(悪魔)は、彼のかかと(キリストのかかと〈ヤコブ〉)にかみつく。」と仰せられたからです。

 

 ヤコブは、キリストのかかと、すなわち、イスラエルは、キリストのからだの一部であるのです。

 

 救い主(救世主キリスト)は、ユダヤ人から出ました。

 世の終わりに立つ救い主(人々を救いに導くふたりの証人と十四万四千人の召された人)もまた、ユダヤ人なのです。

 

 ユダヤ民族以外の者が、「私が世界を救う救世主である。」と主張しようと、「イスラエルは捨てられて、この国(キリストを名乗る者が住んでいる国)が新しいエルサレムとされた。」と、恥知らずにも、そのように語ったとしても、神の御計画は、着々と進められています。