「主は私(ゼカリヤ)に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。
主はサタンに仰せられた。『サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。』
ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。『彼のよごれた服(神に受け入れられない悪い行ない、不信仰)を脱がせよ。』そして彼(御使い)はヨシュアに行った。『見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。』
私(ゼカリヤ)は言った。『彼(ヨシュア)の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。』すると彼らは、彼(ヨシュア)の頭にきよいターバン(きよい思い、すなわち新しい心)をかぶらせ、彼に服(神の子羊の血の贖い)を着せた、そのとき、主の使いはそばに立っていた。
主の使いはヨシュアをさとして言った。
『万軍の主(悪魔を踏み砕き勝利される主、すべてのものを統べ治められる力ある主)はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道(真理の御霊の導かれるいのちの道)に歩み、わたしの戒めを守る(神が遣わされた神の子羊イエス・キリストを信じてイエスのことばに聞き従う)なら、あなた(大祭司ヨシュア)はまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。わたし(神)は、あなた(ヨシュア)をこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。(神に大祭司の権威を与えられた者であることをユダヤ人たちに認められて、ヨシュアは大祭司の務めを果たす。)
聞け。大祭司ヨシュアよ。あなたとあなたの前にすわっているあなたの同僚たちは、しるしとなる人々だ。(ヨシュアとヨシュアとともにいる同僚は、イスラエルでのしるしとなり、不思議となる人々です。すなわち、十四万四千人のユダヤ人もともにいるようです。)
見よ。わたし(神)は、わたしのしもべ、一つの若枝を来させる。」(ゼカリヤ3:1-8)
「万軍の主はこう仰せられる。
『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は、再びシオンを慰め、エルサレムを選ばれる。』」(ゼカリヤ1:17)
神は、終わりの時に、大祭司ヨシュアに油を注ぎ、エルサレムに立てられるようです。イスラエルは、贖われます。
「主はこう仰せられる。
『わたし(神)はあわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。―万軍の主の御告げ。―測りなわはエルサレムの上に張られる。』」(ゼカリヤ1:16)
神が選ばれた神の都エルサレムは、長い間、争いの場となっていました。平和の神はそこに住まわれません。
神が遣わされた神の子羊(神のひとり子イエス・キリスト)を信じなかった不信仰なイスラエルを怒られた神は、ローマ帝国に力を与えて、彼ら(ユダヤ民族)の先祖の地(イスラエルの地)から離散させたので、ユダヤ人たちは国を失い、世界中で厄介者扱いされる寄留者となりました。
エルサレムの神の神殿は破壊され、廃墟となりました。聖なる神は、御自身の御住まいを捨ててまで、御自分の民イスラエルの不義を怒り、彼らの咎を罰せられました。
しかし、神は、地上から去られたのではありませんでした。すでに、御自身の安息の地を得ておられたのです。それが、日本列島であったのでしょう。
日本列島には、すでに、アッシリア捕囚された十部族とバビロン捕囚された二部族のうちから、ユダヤ人たちに東へ行くよう命じて聞き従った神の民を渡来させ、彼らは日本の地に定住していました。
これが、日本国が神の国と言われる所以だと思われます。日本国は、神の民(神と契約を結ぶユダヤ人)が国づくりをした国なのです。
神は、新しい地を得ておられました。しかし、神の御心はエルサレムから移ることはありません。
神は、再び、御自身が選ばれた御住まいであるエルサレムに帰られるのです。そして、そこに、ユダヤ人たちの手で第三神殿が建てられるのです。
今は、エルサレムの神殿の丘には、イスラム教のモスクが建っています。ソロモンの神殿が建っていた場所に、モスクが建っているのです。
イスラエルの神の御住まいであるエルサレムは、現在、全能の神に敵対する反ユダヤ主義、反イスラエル思想の、ほかの神々の住まいとなっています。
しかし、神は忘れておられません。神は、神の民(渡来したユダヤ人)によって神の国をつくり、日本人となっている御自分の民を知っておられるのです。
神はゼカリヤのような預言者を立てられます。
ホピ族の人々が「白い兄」と呼ぶその人です。
神の民であることを忘れているアロンのすえに、唯一まことの力ある神、全能の神に仕える備えをさせるのです。
彼(アロンのメシア)の思いは、イスラエルの神から遠く離れています。彼の信仰の対象は、聖書の神「イスラエルの神」ではないのです。
白い兄は、キリストの血で贖われている聖霊の宮です。神の喜ばれる、真理の御霊に聞き従うしもべです。
神の時に、白い兄は、神が召された「アロンのメシア」のきよめのために神に執り成し、彼(アロンのメシア)は覚醒するでしょう。
彼は、自分に与えられた神の使命を悟るのです。しかし、使命を理解したもののどうしたらよいのか先のことはわかりません。
白い兄は、まず、イスラエルのメシア(仏教の教えに従うユダ族の人)のところに行き、彼に聖霊のバプテスマを授けると思われます。
イエスの弟子たちを迫害し殺意に燃える、熱心なユダヤ教徒であったサウロが、突然天からの光によって視力を失うと、主イエス・キリストご自身の語りかけを受けました。そこで、サウロは、サウロが迫害していたのは、キリストであったことを知らされます。サウロは、十字架につけたナザレのイエスは、イスラエルの神が遣わされた、世の罪を取り除く神の子羊キリストであったことを悟るのです。
キリストを悟ったものの、自分はいったいどうしたらよいのかわかりません。
殺意を持ってイエスの弟子たちを迫害することは、サウロが仕えるイスラエルの神に喜ばれることだと固く信じていたのです。サウロは、イエスのしもべたちを迫害することで、自分は神に仕える忠実なユダヤ教徒であるという誇りを持っていました。
神の知識のない無知なユダヤ人たちが、ナザレのイエスの教えを信じて、イスラエルの聖なる神を汚していると思っていたのです。
視力を失ったサウロは、人々に手を引かれてダマスコへ行きました。ダマスコにはアナニヤという、イエスのしもべがいました。
アナニヤは、主に告げられていました。
「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
彼(サウロ)は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」(使徒9:11)
しかし、アナニヤは恐れます。サウロは、エルサレムでイエスの弟子(キリストの聖徒)たちにひどいことをして来た人ではありませんか。
「しかし、主(イエス・キリスト)はこう言われた。『行きなさい。あの人(サウロ、後のパウロ)はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたし(キリスト)の選びの器です。
彼(パウロ)がわたしの名(イエス・キリストの御名)のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。』」(使徒9:15,16)
キリストは、キリストの敵であったサウロを、キリスト・イエスに敵対する熱心なユダヤ教徒の中から選び、異邦人の使徒として召されたのでした。
終わりの時にも、同じようなことが起こるのでしょう。
イスラエルのメシアは、キリスト教を嫌う熱心な仏教徒なのかも知れません。聖書の教えに耳を貸すことのない人、聞く耳を持たない人なのかも知れません。
しかし、その時が来れば、彼は世界を救いに導くイスラエルのメシアとして、キリストに立てられるのです。
彼に聖霊のバプテスマを授けるのが、キリストに召された白い兄なのでしょう。彼(イスラエルのメシア)は、真理の御霊によって新しい人に変えられます。
イスラエルのメシアは、キリストのしもべとなります。彼は、白い兄とともに、アロンのメシアのところに行って、父の名と子羊の名を知らせ、真理の御霊を授ける「一つの若枝」なのです。
神は、白い兄を起こして、イスラエルのメシアに真理の御霊を注ぎ、また、イスラエルのメシアをアロンのメシアのところに来させて、アロンのメシアに真理の御霊を注ぐのでしょう。
イスラエルのメシアとアロンのメシアとが父の名と子羊の名を印する信仰集団(世界各国に隠されている少数部族)のもとには、ユダヤ人の時にともに世界の救いのために働く十四万四千人のユダヤ人たちがいるのです。
神が選ばれた「イスラエルのメシア」は、イエス・キリストがダビデの系図に来られた若枝であったように、世に希望と御救いをもたらす一つの若枝、ユダの総督となるのでしょう。
ふたりの証人は御救いへと導く明けの明星のような存在となり、ユダヤ人たちの希望となり、ユダヤ人たちに受け入れられることでしょう。