「初めに、神が天と地を創造した。
地は形がなく、何もなかった。闇が大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光と闇とを区別された。
神は、この光を昼と名づけ、この闇を夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。
ついで、神は『大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。』と仰せられた。
こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。
神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。」((創世記1:1ー8)
聖書では、このように、天地万物の造られた経緯が書かれています。
闇に水がありました。地はまだありません。神の霊が闇にある水の上を動いていました。そのとき、父なる神は「光あれ。」と仰せられました。
神のことばとともに、光ができました。神は、その光をよしと見られました。そして神はこの光と闇とを区別されたのです。
その遥か昔に、神の御主権に背き、天から追放された堕天使たちがいました。彼らの罪が闇を生んだと思われます。
神の御座のある天は、全き光であって、暗いところはひとつもありません。しみも傷もしわもない、聖なる完全な光です。神の栄光の輝きがすべてのものを照らしているのです。
神の御座のある第三の天には、闇がありません。罪は無いのです。
罪とは、御座におられる大いなる主権者であられる全能の神、すなわち、すべてのものの存在の目的であり、また万物が存在する原因である方(ただおひとり、みずから存在しておられる、唯一「ある方」)の栄光から外れることです。
神に召されてイスラエルに遣わされる時、モーセは、神に言いました。
「私(モーセ)を遣わされたのが、ユダヤ民族の父、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であることを信じるために、イスラエルに、遣わされた方の名前を何と言ったらよいのですか。」
神はモーセに仰せられました。
「わたし(モーセを遣わす神)は、『わたしはある。』という者である。」(出エジプト3:14)
神は、在って有る者。永遠の昔から存在し、昔も今もまたとこしえまでも存在するお方です。神はほかのだれかに支えられて存在しておられるのではなく、御自身みずから存在される、唯一の存在です。
天地万物も人も御使いも、すべてのものは、この唯一の神によって存在する被造物なのです。「わたしはある。」と仰せられる神によらなければ、被造物は自らその存在を保つことはできません。
闇には、水蒸気のような水のガスで満ちていました。
神は、まずその闇に、光を存在されました。「光よ。あれ。」と仰せられたからです。神は、堕天使たちの住む望みのない第二の天(大いなる闇)に、希望の光を現わされたのです。
神は、堕天使たちの悔いる者たちに救いを用意されたのでしょう。
そして、闇に満ち満ちていたいのちを生む水の上には、神の霊【聖霊】が動いていました。
神は、神のことば【神のひとり子】によって、光を設け、水のガスを上と下の二極に区別されました。
上には、雨の源の水蒸気を、下には水を集めた海を造られました。そして、上下に区別されるふたつの水の間には、大空を設けられました。この大空は、人々が天と呼ぶ第一の天です。
神は、下の水の中から地を造られました。
日本神話では、天の高天原の神々が下界に新しい国を造るために、伊弉諾(いざなぎ)と言う男神と伊弉冉(いざなみ)と言う女神の二神に、「ただよっているものを国として固めよ。」と命じて、天沼矛(あめのぬほこ)という矛を授けられた、とあります。
イザナギ、イザナミの神が天浮橋(あめのうきはし)という天に浮かぶ橋に立ち、どろどろとしたものを天沼矛(あめのぬほこ)でかき回し、しばらくして矛を引き上げると、矛の先より滴り落ちたものが島となった、とあります。
淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州とつぎつぎに生み、日本の国土ができたと言われています。
聖書の、神は「天の下の水は一所に集まれ。乾いた所が現われよ。」と仰せられて、そのようになった、という記述とよく似ていますね。つまり、海から地(陸)を造られたということです。
神は、闇に現象を造られました。人間の肉眼で見える物質によってこの世はかたち造られました。
また、神は、いのちの木(永遠のいのちを得させる「いのちの実」がみのる木)を植えられたエデンの園の管理者として、人を土の塵から造り、人のかたちをしたその土の器の鼻にいのちの息を吹き込んで、生きものとされました。
神は、現象と物体を造り、その物体と現象に神のいのちを宿らせなさいました。
神が第一の天と地を造られたとき、神の霊が動き、その中にいのちを宿されたのです。
闇に造られた天と地は、闇とともにやがて存在を失います。
「わたしはある。」と仰せられる、存在の根源であられ、存在の原因であられる神が、それらが存在する理由である目的を成し終えるならば、それらのものはすべて消えてなくなるのです。
神は、最初の創造で満足されません。人が神の命令にそむき、神のことばから外れてしまったからです。
神のことばであられる「神のひとり子」は、肉体を持つ人の子として地に来られ、ご自分の血によって、神のことばから外れ神がわからなくなっている人の罪を贖い、人の子となられた神の御子イエス・キリストに繋がることで人の罪を赦して、再び神のことばとひとつのものとされるのです。
神のことばである「神のひとり子」は、肉体を持つ人となって来られ、罪の生贄の子羊として罪の贖いの血を流し、死んで墓にはいり、聖霊によって死から甦り、復活のからだで天の神(父なる神)のみもとに帰られました。
そして、神(父)の御座の右に着座されました。
罪の贖いのみわざを成し遂げた子羊イエスは、父なる神から、主権と光栄と国を与えられ、聖霊のバプテスマを授ける権威を持つキリストとして、神のことば【神のひとり子イエス・キリスト】に繋がる者に、キリストを死から甦らせた生かす御霊、すなわち、もうひとりの助け主であられる「真理の御霊」を授けられます。
神は、地に遣わされたひとり子(神の子羊イエス・キリスト)によって、御自身(父なる神)を知らせ、天の御国を教え、永遠のいのちの道へと導く御霊の存在を現わされました。
神が用意された新しい創造は、人間の目には見えないものです。心の目(信仰の目)によって見る、天に属するものです。
最初の創造は、物体があって、いのちを得ました。肉体の中にいのちの息を受けたのでした。
新しい創造には、物体がありません。からだはあとから着ます。
まず、魂が神のことば(神のひとり子イエス・キリスト)にへりくだり、きよくなることを願います。そして、信仰によってキリストの御霊(真理の御霊)を受けます。
御霊は永遠を思う思いを思い起こさせ、神を思う新しい心をかたち造って行かれます。肉体を持ちながら、御霊によって生まれるという、新生の体験をするのです。
真理の御霊を宿す肉体は、御霊の器です。御霊は、イエスのことばを思い起こさせ、真理を教えてくださり、御霊の思いを受け御霊に導かれて歩む者は、神の神殿とされるのです。
神の神殿(聖霊の宮)の祈りは、天に届けられます。新しい創造は、神とひとつなのです。
父なる神と子なるキリストと聖霊がひとつであられるように、御霊の器はイエス・キリストの御名と真理の御霊によって、神の交わりの中にはいる神の子どもとされるのです。
神は、この新しい創造(七つの御霊の教会)の完成によって、すべてのものの存在の目的を成し遂げられます。すると、今、人の目に映っている天地万物は、存在の理由を失い、すべて消え去るのです。
神は新しく創造した神の子どもたちの長子であるイエス・キリストと同様に、新しく創造した人たちに、とこしえのからだ(復活の霊のからだ)を着せられます。
創造主であられる神は、神の子羊イエス・キリストをかしらとするキリストのからだ(信仰の勝利者の七つの御霊の教会)のために、彼らの住まいを、新しい天と新しい地に用意しておられるのです。
新しい創造は、肉体にいる間に、永遠のいのち(真理の御霊)を受けた人々が、肉体の死の後に肉体を脱いで新しいからだを着せていただき、神の子どもとされて、キリストとともに天の御国を相続するのです。