ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

信仰の道は真っすぐではない

 

 神に生まれる前からキリストの前ぶれの務めを負っていたバプテスマのヨハネは、時が来て、イスラエルの民に悔い改めを説き、悔い改めのバプテスマ(水のバプテスマ)を授けていました。

 

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)

 バプテスマのヨハネは、神がイスラエルに遣わされた神の子羊の贖いと聖霊のバプテスマを授けるキリストの出現の時が来たことを告げたのでした。

 

 バプテスマのヨハネは、パリサイ人やサドカイ人を𠮟りつけました。

 「『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけない。悔い改めにふさわしい実を結びなさい。(アブラハムの子孫であるから救われるのではない。天の御国にはいるのにふさわしい行ないをする者となりなさい。)斧もすでに木の根元に置かれています。(役に立たないしもべは切り倒されるのです。)(悔い改めのないまま自分を義とするあなたがたに)だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」

 

 キリストは聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

 永遠のいのちを得させるキリストは、永遠に生きる神の子どもとする聖霊のバプテスマと、天の御国にふさわしい新しい人に造り変えるきよめの火(試練)をお授けになるのです。

 

 金は燃える炉から取り出されます。天の御国にはいる良き者は、聖なる火を下すキリストの御霊によって創造されます。

 

 「(永遠のいのちを得させるキリストは)手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。(キリストは、神の御子イエス・キリストの弟子たちを集めたキリスト教会を、すみずみまで天の御国に達するほどにきよめられます。そして、収穫の時が来ると)麦(キリストの御霊によって造り変えられ新しいいのちを得た神の子どもたち)を倉(天の御国)に納め、殻(新しい創造を受けておらず、天の御国にはいる行ない〈義の実〉がなくて、世の人と変わらずいのちのない者たち)を(永遠に)消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:12)

 

 バプテスマのヨハネは、遣わされた神に忠実でした。人を恐れず、神の御霊の示されるままを大胆にユダヤ人たちに語ったのです。

 

 イエスは、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」と言われました。

 バプテスマのヨハネは、母の胎内にはいる前から、キリストの前ぶれをする者として召されており、母エリサベツの胎内にいたときに、神の御子イエスを宿す処女マリアの声を聞いたヨハネは、母の胎内で喜びおどりました。

 

 生まれる前からヨハネはキリストの油注がれた者を知り、神の御子イエス・キリストを証言するためにヨハネの人生があったのです。

 

 しかし、イエスは「女から生まれた者の中(地上に生まれた人の中)で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」のことばに続いて言われました。

 「しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」(マタイ11:11)

 

 天の御国の一番小さい者とは、いのちからがら救われた人のことです。神のためにした善行がありません。しかし、信仰によって自分ひとりのいのちを救いました。千年王国の都にはいっていのちの木の実を食べることが許された者です。

 

 イエスに招待されていながら、信仰がなく、キリストの王国を待ち望んでいなかった人々は都にはいることができません。彼らの思いは、自分のことでいっぱいだったのです。

 

 招いていた人が来ないので、彼らの席は空いたままです。

 子羊の婚礼を祝う祝宴(千年王国)を設けた主人(神)はしもべに言いました。

 

 「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。」

 それでも、まだ席があります。

 「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。 

 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は、ひとりもいないのです。」(ルカ14:23,24)

 

 最後に集められた人々の信仰のほうが、バプテスマのヨハネの信仰よりもまさっているとはどういうことでしょうか。

 御国に招待されておらず、御救いの約束がなかった者(契約のない民)のはずなのに、神に最後に集められて席につき、キリストの招きに心おどらせる者たちのほうが、バプテスマのヨハネよりも偉大である、と言われたのです。

 

 バプテスマのヨハネは、ナザレのイエスが「世の罪を取り除く神の子羊」であると証言し、この方は、聖霊のバプテスマを授けるキリストであると証言しました。

 ナザレのイエスは、イスラエルが待ち望んだ救い主なのです。

 

 イエスがキリストであることを証言したバプテスマのヨハネの弟子の幾人かは、それを聞いて、イエスについて行きました。しかし、ヨハネ自身は、キリストのみもとに来ることはありませんでした。

 

 罪を取り除き、聖霊【永遠のいのち】を授ける方(イエス・キリスト)がイスラエルに来てくださったのに、何故ヨハネは、ヨハネのもとにいる弟子たちとともに、神のことば(真理)を教える方(イエス・キリスト)のところに加わることがなかったのでしょうか。

 

 ヨハネは、キリストをイスラエルの民にあかしするために生まれて来たのです。

 ヨハネは、キリストを聖霊のバプテスマを授ける方として、神から聞いていたのです。

 

 しかし、神は、子羊イエスが罪の生贄として子羊の血を流すこと、世の罪を贖い罪を取り除く贖いの子羊イエスを死から甦らせること、復活したイエスを天に上らせて主権と光栄と国を与えて神の御座の右の座に彼を着座させること、神から栄光をお受けになったイエス・キリストの御名によって地上の人々に聖霊のバプテスマを授けること、を計画しておられたのです。

 

 キリストの権威である聖霊のバプテスマは、十字架の死と復活と昇天のあとに用意されていました。

 しかし、ヨハネは、イエスのキリストの権威を見ることなく世を去りました。

 

 ユダヤ人たちにキリストをあかしするために生を受けたヨハネは、ユダヤ人ではないエドム人のヘロデ王が自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤを妻としたことを「不法である。」と責め、牢に入れられました。

 ヨハネは、使命ではない方向に向かっていたのです。

 

 「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。

 『おいでにあるはずの方(キリスト)は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。』」(マタイ11:2,3)

 

 聖霊のバプテスマを授けることのないキリストに、ヨハネは失望したのでしょうか。

 ヨハネの信仰は、イエスに置かれていなかったのです。自分で証言したキリストが、本物かどうかわからなくなっていました。

 ヨハネの弟子たちもまた、わからなくなっていたのでしょう。ヨハネは、自分ひとりがキリストに辿り着けないだけではなく、自分のもとにいる弟子たちをも迷わせてしまいました。

 

 バプテスマのヨハネの信仰は、神が遣わされたキリスト・イエスとともにありませんでした。

 ヨハネは獄中で首をはねられて死にました。イエスが聖霊のバプテスマを授けるキリストであることを、見ることも体験することもなく、この世を去りました。

 

 女から生まれた者の中で最もすぐれたバプテスマのヨハネであっても、主イエス・キリストに目を向けなければ、真理がわからなくなってしまうのです。

 

 はっきりとした召しがあり、その使命の働きをしても、最後までその信仰を持ち続けなければ、信仰の道は脇道にそれてしまうのです。

 神が遣わされた神の子羊イエス・キリストに向かなければ、思いは暗くなり、真理がわからなくなるのです。

 

 「(ヘロデ王の妻)ヘロデヤはバプテスマのヨハネを恨み、ヨハネを殺したいと思いながら、果たせないでいた。

 それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼(神の人ヨハネ)を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。」(マルコ6:19,20)

 

 しかし、ヘロデ王は、ヘロデヤの娘に誓った誓いのために、娘が願ったヨハネの首を与えることとなったのです。

 

 ヘロデは、ヨハネが神の人であることを知っていました。また、ヨハネを保護するほどに、神を恐れていたのです。

 妻の悪巧みにより、自分の思いとはうらはらに、ヨハネの首をはねることとなったのです。

 

 最初の人アダムもエバのことばに惑わされて罪に堕ちました。

 

 人は、神のことばを信じ、神に遣わされた人を信じる心を持っていたとしても、状況によっては、神の人に敵対することをしてしまうものです。

 

 信仰を持っても、その信仰の道を全うするのは容易なことではありません。不信仰になってしまう状況、信仰がわからなくなることはいくらでもあります。

 

 信仰の道にはいくらでも分かれ道があって、選択が迫られます。

 

 イエスは言われます。

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その(信仰の)道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。

 (天の御国へ続く、永遠の)いのちに至る門は小さく、その(いのちの)道は狭く、それを見いだす者はまれです。(神が天から遣わされた御霊によらなければ、その門を見いだすことも、また門に入ることもできないのです。)」(マタイ7:13,14)

 

 信仰の道が不安定なように思えても、いのちの道へと導いてくださる、助け主である真理の御霊がともにおられるならば、大丈夫です。

 御霊の御思いを受けて、神のことばとともに信仰の道を歩むならば、御霊がすべてを益とし、天の御国へと連れて行ってくださいます。

 

 「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。

 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。(いつも主を尋ね求め、主を求めて生きよ。)

 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5,6)

 

 「主とその御力を尋ね求めよ。

 絶えず御顔を慕い求めよ。(いつも神を仰いでいなさい。)」(詩篇105:4)