「神である主は、人(アダム)に命じて仰せられた。
『あなたは、園のどの木からでも(あなたの)思いのまま食べてよい。しかし、善悪を知る知識の木から取って食べてはならない。それを取って(善悪を知る知識の木の実を)食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』(創世記2:16,17)
「蛇(悪魔のことばを語る獣)は女(人であるエバ)に言った。
『あなたがた(アダムとエバ)は(善悪を知る知識の木の実を食べても)決して死にません。あなたがたがそれ(善悪を知る知識の木の実)を食べるその時、あなたがたの目が開け(見えないように隠されていたものが見えるようになり)、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる(全能者のようにすべてを悟る者となる)ことを神は知っているのです。』
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く(食べても安全で)、目に慕わしく(美味しそうに見え)、賢くするというその木(善悪を知る知識の木)はいかにも好ましかった。(エバは、善悪を知る知識の木の実を食べたくてたまらなかった。)それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫(アダム)も食べた。』(創世記3:4-6)
神は、人に、「善悪を知る知識の木からは(実を)取って食べてはならない。それを食べるその時、あなた(人)は必ず死ぬ。」と仰せられました。
なぜ、食べてはならないのでしょうか?それは、善悪を知る知識の木の実を食べると、必ず死ぬからです。
悪魔に言葉を授けられた蛇は、「善悪を知る知識の木の実を食べても、決して死なない。善悪を知る知識の木の実を食べる時、人は善悪を悟る者となり、神のようになる。」と言いました。
エバは、「決して死なない。」という蛇の言葉を信じ、神のようになるという善悪を知る知識を与える木の実を自分に好ましい物と考えて、善悪を知る知識の木の実を取って食べました。
夫であるアダムは、エバといっしょにいました。神の命令を受けているアダムは、「必ず死ぬ。」と仰せられた善悪を知る知識の木の実を食べる事に、恐れを感じることがなかったようで、エバを止めませんでした。
アダムの心は、神のことばにはなく、「私の骨からの骨、わたしの肉からの肉」と、その存在を己のように愛する、妻エバにあったようです。
アダムは、神の命令よりも、愛する妻エバに心が惹かれていました。
アダムは、神のことばを手放し、妻エバを選びました。エバはアダムにとってかけがえのない宝なのです。アダムは、神の命令に聞き従って生きることよりも、自ら、エバを選び、神の命令に背いて死を選んだ妻エバと同じ道をいっしょに歩んだのでした。
人はいのちを与えてくださった創造主から離れ、己を神とする悪魔と似たものとなり、自分で善悪を知ることが賢い者であり、知恵者であると高ぶる者に変わりました。
人は、生まれた時から神に高ぶる性質を持っています。最初の人アダムがその生き方を選んだからです。人は、アダムの選んだ道の中でさまよっています。いのちが、いのちの根源であられる神からずれているからです。
そもそも、人の魂は、おるべきところにおらず、いのちはあるべきところにないのです。人の肉体の中で、まことのいのち(いのちの根源であられる神)からずれているいのち(魂)が、いのちの故郷の帰りたい、とうめいています。いのちの根源から外れた魂は、魂の故郷(いのちの源)を慕っているのです。
なぜならば、人の魂は、神の命令を受けたときの記憶を残しているからです。神の命令に背いたゆえに、この苦しみを味わっているのだということを、魂は訴えて来ます。
人は、意識ではそのことを否定していても、人の魂は心得ています。魂そのものは純粋であり、真理(神)を知っているのです。
善悪を知る知識の木の実に毒された魂は、神のような知識を求めます。すべてのことを理解しようと、この世のことを数式に求めます。そして、理屈をならべて、神の摂理を暗くします。
神の命令の記憶を残す魂は、魂の源の存在を知りたいと、目に見えない絶対的な存在に思いを向け、その存在に辿り着く道を探り求めます。
絶対的な存在は、神なのか?仏なのか?
しかし、どちらも、いのちの根源に近づいているのです。
大乗仏教である日本仏教は、仏の中に、人となられた神のひとり子イエス・キリストの御姿を見ているように感じられます。仏教の熱心な人々は、それぞれ呼び名が異なりますが、神の御子の姿を心の目に映しているように思います。
彼らは知らずに、真理を知らないまま、神の子羊イエス・キリストの歩みに思いを馳せ、救世主「神の御子」の歩まれた十字架の道を慕い、その道に入りたいと熱心に求めているように感じるのです。
日本神道は、神が聖なる方であることを知らせ、聖なる神を礼拝する者として、神の御前に出る心構えと整えとを人々に教えているように思います。
神道は、地上に生きる人々に、目に見えない神の存在を知らせ、人の環境のすべてに宿り働いておられる神のいのちに気づかせて、いのちの根源であられる神を礼拝する者として、神の御前に帰る道があることを示しているように思います。
しかし、仏教も神道も、その帰るべきいのちの根源である神の正体を知っているようで、本当のところはぼんやりとしているのではないでしょうか。
そこで、日本キリスト教の出番です。
キリスト教は、旧約聖書によって、いのちの根源であられる父なる神の存在、すなわち神道の信仰の対象である聖なる神であられる偉大なる創造主を知っています。
また、新約聖書によって、人となって来られた神の御子イエス・キリストが罪の贖いを完成されたことを知っています。仏教の求める阿弥陀如来は、ご自身の血で罪の贖いを成し遂げてくださった神の子羊イエスであり、神の子羊イエス・キリストに帰依し(イエス・キリストを信じ、イエス・キリストにすべてをささげ、その教えに従い)、キリストの御霊を受ける人々が阿弥陀菩薩であることを知っています。
聖書の神を信じ、真理の御霊を受けているキリスト教徒は、日本神道と日本仏教を祝福し、神の子羊イエス・キリストの血が注がれて贖われることと、真理の御霊が注がれて真理を悟る者とされることを執り成すことができます。
日本神道や日本仏教が、キリスト教の中に加わるのではありません。
彼らは、イエス・キリストの御名を呼ぶ者ではなく、真理の御霊によって、父の名(創造主)と神の子羊の名(罪を贖い永遠のいのちを得させる救世主)を知るものとなるのでしょう。
神は、キリスト教徒を集められるのではありません。
栄光のキリストの右の手の中にあるのは、七つの御霊の教会です。
真理の御霊【永遠のいのち】を持つ新しい人、すなわち、神が注がれる真理の御霊により、信仰によって生まれ、御霊によって新しく創造された信仰の子どもたちが神の子どもたちなのです。
神が注がれる終わりの雨は、御霊の雨です。キリスト教にも、日本神道にも、日本仏教にも、無宗教の人々にも注がれるでしょう。
キリスト教徒の中でも、神に熱心な人とそうでない人、神に忠実な人とそうでない人とがいます。
異邦人の時の完成のときには、神に忠実な者、神に選ばれた者、神に召された者が完成します。彼らは、子羊の婚宴に招かれた人々です。
人は、救世主【イエス・キリスト】のもうひとりの助け主【真理の御霊】の助けによって、忠実な歩みを完成します。
人は、そもそもいのちの根源である神からずれた者なのです。思いは、神から離れ、己を神(自分の人生は自分のもの)として生きる、天に繋がっている糸(いのちの道)が切れた凧のような存在です。
人は、神に忠実でありたいと願っても、忠実であり続ける完全な生きものではありません。
神は、魂の切れていた糸(いのちの道)を、神の子羊イエス・キリストによって結びなおしてくださいました。
神の子羊イエス・キリストの血は、神と人とを和解させて、神が引き上げられれば、天の御国に帰ることのできる新しいいのち【キリストの生かす御霊】を与えてくださったのです。
神のことばに背き、神の命令を軽んじる、古い人の性質(肉の性質)は、キリストの十字架によって砕かれました。
神は、神の子羊イエス・キリストの血によってきよめ、神の御霊を宿す聖霊の器に新しく造り変えてくださいます。
神は、砕かれた土の器を真理の御霊によって新しい創造をされて、信仰によって生きる人を、神に忠実な新しい性質を持つ神の子どもに造り変えてくださいます。
真理の御霊によって新しい創造を受けた神の子どもたちは、御霊によって導かれ、神に忠実な者の歩みを全うするのでしょう。
天の神のことばを信じて信仰の道に歩む者が、御霊によって生まれると、御霊によって天の御国の性質に造り変えられ、御霊によって信仰の歩みを全うする新しい人とされるのでしょう。