ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神道と仏教によって守られた大和の魂

 

 日本人は無宗教と言われますが、日本人の精神の根底には信仰があります。

 日本列島のどこへ行っても、神社仏閣があり、いにしえからその地域の人々の心の拠り所とされてきました。

 

 自然豊かな日本列島に住む日本人には、目に見えないものへの畏敬の念がありました。自然は日本人を生かしてくれますが、時には日本人を打ち叩きます。日本人を取り囲む自然は生きており、意思や感情を持っているかのようです。

 

 日本人は、霊によって自然から学ぶ者でした。日本人は自然の中の一部としての自分を知っており、すべての生き物とひとつのいのちで生きていたのです。

 日本昔話に出て来るキツネや狸と人間は、化かされるとそれに気づかぬふりをしてギャフンと言わす。まるで相撲の勝負をしているようで、同じ土俵に立つ生きもののように描かれています。

 

 日本人の心には、神道の精神や仏教の教えを土台とする道徳的なものがしみ込んでいます。

 毎週日曜日に教会へ行って礼拝し、聖書の教えを聞いて学ぶキリスト教会とは異なります。

 

 毎週神社やお寺に行かなくても、また、宮司や住職の説法を聞かなくても、身についているものなのです。

 なぜならば、両親が、その精神をその父母から受けており、家庭の中に根づいているものだからです。

 

 日本人の精神性が、仏教や神道を基礎にしていることを意識しないまま、それぞれの家庭は命を紡いできたのです。

 

 「お天道様が見ているよ。」という教えは、まさにその精神の根底にあります。目に見えないものを意識し、見えないものに見られている、という思いは子どもの頃から身についていたものです。

 

 しかし、今の日本で、「お天道様が見ているよ。」と大人に言われたことのある若い人はどれくらいいるのでしょうか。

 「かごめかごめ」の歌を知っている若者はどれくらいいるのでしょうか。

 

 現在は家庭のあり方も変化し、日本人特有の精神性も大きく崩れています。

 

 終わりの近い今、目に見えない新しい世界に思いを向けて日本人の精神性を取り戻して、次の世(神の国)に備える大和の心の日本人と、地上の日本国のために知恵を発揮し、世界の発展に貢献する新しい日本人とに分かれているのかも知れません。

 

 洗礼を受けてクリスチャンになると、つい、キリスト教徒だけが天国に行くと思いがちです。そして、日本の救いのために、神道や仏教が妨げていると考えてしまいます。

 

 神は、終りの時代の救いの完成のために、日本人から救う者を起こされます。しかも、その日本人はキリスト教徒ではありません。

 

 女預言者は、罪が贖われた御霊の器のようですから、イエス・キリストのしもべかも知れません。

 しかし、卍と十字の紋章を持つ「イスラエルのメシア」とされる男性は、仏教の教えを持っておりキリストに回心した人のようです。

 また、○の紋章を持つ「アロンのメシア」とされる男性は、神道の神の道を歩んでいた男性のようです。

 

 そして、世界宣教の召しを完成させる十四万四千人のユダヤ人(ヤコブの血を引く人々ですが、現在は、ほかの民族の名前で呼ばれている人々です。そのうち、日本人)は、神道の中にいるのです。キリスト教の中にはおりません。

 

 十四万四千人のユダヤ人は、宗教に汚されたことのない人たちで、聖なる霊、霊なる神に自分の霊をもって仕えていた、生けるまことの神に忠実な人々です。

 

 イスラエルのメシアもアロンのメシアも、自然豊かな日本国において育ち、目に見えない大いなる力と慈しみときよさを持つ大いなる方にへりくだり、生けるまことの神の霊にかしずく人たちなのです。

 

 生けるまことの神が選ばれるのは、自然と調和し、いのちを愛で、すべてのことに働いておられる大いなる神の御主権にへりくだる魂です。

 

 神は、御霊の御住まいを、大和の魂に御覧になっておられるようです。

 大和の魂は、御霊の住まいとして、大変好ましいものです。

 

 神は、キリスト教徒にも、おそらく、大和の魂の、自然と調和し、生ける神とひとつとなるこの精神性を望んでおられることでしょう。

 

 神は、御霊の教会の完成へと導いておられます。

 御霊によって新しく造り変えられたキリスト教徒も、真理の御霊によっていのちを得た仏教徒も、真理の御霊によって聖が完成された神道の人も、御霊の教会に集められます。そして、十四万四千人のユダヤ人がイエス・キリストのことばとひとつとなって、御霊の教会を完成することでしょう。

 

 日本の神道も、仏教も、神から遠く離れたものではありません。

 神道も、仏教も、日本人の精神性を培い、支え、守り、大和の魂を形成する養育係だったのです。

 

 キリスト教徒にも、大和の魂は大切なものです。

 神の御子イエスが地上に来られた時に、律法の奴隷となっていたユダヤ人たちは、神のひとり子イエスを殺してしまいました。彼らは、モーセの律法を文字で捉え、霊で捉えていなかったからです。

 

 終わりの雨(聖霊の注ぎ)が注がれる時代に、聖書を文字として捉える律法的なキリスト者は、霊の思いが暗く、おそらく、生ける神の御霊を、悪霊の仕業であるとして、御霊を消すことでしょう。

 選びの民という選民意識のあるキリスト教徒が、聖書を知らなかった仏教徒や神道の人々が喜んで受け入れる真理の御霊を、正しい良いものだと思うでしょうか。

 

 キリスト教徒も、キリストの授けられる真理の御霊を受けなければならないのです。

 水のバプテスマで満足してはなりません。

 バプテスマのヨハネのことばを思い出しましょう。

 

 「私(バプテスマのヨハネ)は、あなたがたが悔い改めるために(自分の罪を認め、罪を悔い改めて神に立ち返るために)、水のバプテスマ(悔い改めのバプテスマ)を授けていますが、私(ヨハネ)のあとから来られる方(キリスト)は、私(バプテスマのヨハネ)よりもさらに力(神の油注ぎ)のある方です。私はその方(キリスト)の履物を脱がせてあげる値打ちもありません。(神が遣わされるキリストは、天に属する方で聖なる方なのです。)

 その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマ(御霊によって新しく生まれ神の子とされるための聖霊のバプテスマと、新生した者に試みを与え肉に死んで御霊によって生きる新しい人に造り変えていく火のバプテスマ)をお授けになります。

 (キリストは)手に(実と殻とをふるい分ける)箕を持っておられ、ご自分の脱穀場(キリストに属する者の教会)をすみずみまできよめられます。

 麦を倉に納め(天の御国にいれて)、殻(神の子となる特権を得ながら、御霊〈永遠のいのち〉を持たない、空っぽの器)を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:11,12)

 

 御霊を授けるのは、神に油注がれたキリスト(神の御子イエス・キリスト)の権威によります。

 イエス・キリストは、水のバプテスマを授けられたことは一度もありません。イエスの弟子たちが授けていたのです。

 キリストは、聖霊のバプテスマを授ける方なのです。

 

 日本のクリスチャンは、自分のうちに眠っている大和の魂を呼びさましましょう。

 御救いは、人の霊を生けるまことの神と結び付けてくださる真理の御霊(生かす御霊)にあるのです。

 

 イエス・キリストを「主よ。主よ。」と呼んでも、真理の御霊を受けていない者は、御霊の教会に数えられないのです。

 

 神道や仏教を忌むものと考えないで、自分の魂の根底にあり、意識の隅に追いやられている大和の魂に思いを向けてみてください。

 律法でがんじがらめになっていた霊は解き放たれて、御霊の自由の中で、生けるまことの神を体験していくことでしょう。

 

 大和の魂のキリスト者の執り成す祈りによって、日本の救いの道が、霊の世界で開かれていくことでしょう。