ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

アブラハムの信仰を受け継ぐ大和の魂

 

 「イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、(それを見たイエスの)弟子たちは彼らをしかった。

 イエスはそれ(弟子たちが子どもを軽んじて、イエスに近づくことを止めるの)を御覧になり、憤って、彼ら(弟子たち)に言われた。

 『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者(子ども)たちのものです。

 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこ(神の国)に、はいることはできません。』

 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」(マルコ10:13-16)

 

 知識がわずかで理屈を持たない子どもは、新しいことを聞く時、まっ白な心で聞きます。また、まっ白な心は、本能的に清濁を見分けることにすぐれており、世の常識を身に着けた大人の心が判断できない、本当のものを見通すのにすぐれていることがあります。

 経験や知識の少ない幼子は、彼らの霊的感性によって本能的に識別しているのでしょう。

 

 大人は、真理だとか難しい話は、子どもにはまだ早いと思いがちです。また、知識も知恵もなくわきまえのない子どもを、聖なるイエスに近づけることは無礼な行いです。

 イエスのことばに聞き入る大人の中にあって、わきまえがなく無知な子どもたちがそこにいるべきではありません。分不相応なことです。子どもは大人の邪魔をしてはならないのです。

 

 弟子たちは、この世の大人の常識にならい、子どもを邪険に扱いました。

 しかし、イエスは、この世の常識とともにおられません。御父とともにあって天上の生き方をされるイエスは、弟子たちの行ないを御覧になって、憤られました。

 

 「子どもたちがイエスのみもとに来ることを止めてはならない。」と、弟子たちを叱られました。

 そして、イエスは、神の国は、人々(大人)から軽んじられ、小さな者とされる者たちのものだと、言われたのです。

 

 また、イエスは言われました。

 「子どもたちのように純真な心で神の国を受け入れる者でなければ、神の国へは決して入ることができない。」

 

 大人は計算づくですが、子どもは無垢な心でイエスに近づき、イエスの愛を自分の霊で感じ取って、頭ではなく体ごとでイエスを受け入れるのです。

 

 イエスは、大人たちが心の中でつぶやき理屈をこねるのを御覧になられます。また、イエスは、子どもたちの中に、純粋な喜びとイエスの愛に応答する彼らの愛を御覧になるのです。

 

 神が選ばれたアブラハムは、幼子のように純真な心で神の愛を受け、神の愛に応答した人だったことでしょう。

 アブラハムは、平和な心の持ち主で、神のことばを聞く純真さがありました。

 

 経験を積んだ大人は、知識を増し加えて、自分で判断します。そして、無意識のうちに攻略法を練るのです。そのようにして、大人は人の道を歩みます。

 しかし、アブラハムは、幼子のように、霊が純真で、神との会話ができました。そして、神の声を素直に聞き取るまっ白な心の持ち主であったようです。

 

 神に声をかけられても、「まさか。」と神の声をそのまま信じる大人は稀でしょう。

 神に語られた、と人々に言おうものならば、たちまち笑いものになってしまいます。人の世とは、そういうものなのです。

 

 しかし、アブラハムの霊は自然と調和していたようです。神の声を聞いても驚きません。神のことばとして受け入れるのです。

 そして、アブラハムがほかの人と違っていたのは、神のことばを聞くとすぐに従う信仰を持っていたのです。

 

 アブラハムは、経験を積んだ大人です。自分の知識と知恵とをもって判断できる大人です。

 しかし、「あなたの生まれ故郷を離れて、わたしの示す地へ行きなさい。」と仰せられると、ウルの地を出てカナンの地に向かいました。途中のカランの地に留まりますが、懐かしい故郷をあとにする人でした。

 「あなたの父の家を離れ、わたしの示す地へ行きなさい。」と仰せられれば、カランの父の家を離れて神の示す地(カナンの地)に、妻を連れて旅立つ人でした。

 

 「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これ(神のことば)に従い、どこに行くのかを知らないで(地図もなく当てのないまま神のことばを頼りに)、出て行きました。」(へブル11:8)

 

 父の家に家財道具を置いて来たことでしょう。人間的にみると、将来の確実な保障はないのです。しかし、アブラハムは、神は確かな方であることを信じていたのです。

 

 アブラハムは、自分を取り巻く環境、自然の中に満ち満ちておられる、いのちの根源であられる主を知っていたようです。

 目に見えない主を、見える方であるかのようにして、全能の主を仰いでいたのです。

 

 イスラエルは、「アブラハムの子孫」と神がお呼びになる、唯一の民族です。アブラハムに誓われた神の誓いを相続する、アブラハムの血肉の子孫であり、信仰の子孫なのです。

 イスラエルの神は、アブラハムの神であり、全知全能の神、主なのです。

 

 神は、アブラハムの子孫のイスラエルと、神の祭司の民としての契約を結ばれました。そして、全知全能の神、主は、イスラエルに神の民として守るべき法(モーセの律法)を与えられました。

 

 イスラエルは、唯一、天の神の律法を持つ民です。

 アブラハムは、律法を与えられていませんでしたが、神に喜ばれる者でした。律法は、罪を犯す者のためにあります。違反者を罪に定めるための物差しなのです。

 

 アブラハムは、神のことばをただ信じる、純真な信仰によって義とされました。アブラハムは、神のことばを信じ神のことばに従う者でした。神の語られることばが、アブラハムの神の法でした。

 

 「善悪を知る知識の木の実を取って食べてはならない。」という命令が、アダムに与えられた唯一の法でした。神は、アダムに法を守ることを要求されましたが、アダムは法を犯し、違反者となりました。

 

 アブラハムの場合は、神の御口から出る一つ一つのことばに従うことが、神の法でした。文字ではなく、神の御口から出る神のことばに、アブラハムは従い通しました。

 神の御口から出る神のことばを聞き、神のことばに聞き従うアブラハムには、律法は必要ありませんでした。なぜなら、律法は違反者のためにあるからです。

 聖書のなかった時代に、アブラハムは、神のことばに聞き従うことで、義とされたのです。

 

 神の律法を持つイスラエルは、律法の違反を恐れるものとなりました。律法の違反には、刑罰が伴うからです。

 アダムが違反すると、報いとして「死」が与えられました。罪の報酬は死だからです。

 

 アブラハムの信仰には恐れがありません。刑罰がないからです。祝福はあっても、呪いはないのです。

 

 神のアブラハムへの誓いは、

「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)です。

 

 しかし、神のイスラエルへの誓いは、

「見よ。私(モーセの律法)は、確かにきょう、あなた(イスラエル)の前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。

 私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令と掟と定めとを守るように命じるからである。(もし、主の命令を守るならば)確かに、あなたは生きて、その数は増える。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地(カナンの地)で、あなたを祝福される。

 しかし、もし、あなたが心をそむけて、(イスラエルの神に)聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これ(偶像の神々)に仕えるなら、きょう、わたしは、あなたがたに宣言する。あなたがたは必ず滅び失せる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地(カナンの地)で、長く生きることはできない。

 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。(全宇宙が証人となり、どこにいても、天と地があなたがたを見張り、祝福と呪いとを定める。)

 私(モーセの律法)は、いのちと死(滅び)、祝福と呪いを、あなた(イスラエル)の前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(主の命令に背いて死を選ぶのではなく、主の命令を守っていのちを得なさい。)」(申命記30:15-19)

 

 主に聞き従う信仰の人アブラハムに、死の誓いも呪いの誓いもありません。

 呪いの誓いは、アブラハムを呪う者にあるのです。

 アブラハムにあるのは、祝福の誓いです。地上のすべての民族の救いの基となる祝福であり、アブラハムには、祝福の基となるという誓いがあるのです。

 

 日本人は自然の中に、目に見えない霊なる神を感じて、大いなる聖い霊の存在を畏れてきました。

 神道に律法はありませんが、日本人ひとりひとりの良心が律法の役割を果たして来ました。

 

 大和の魂には、文字の律法ではなく、霊の感覚による良心が働いています。

 この良心が霊なる神をとらえ、聖なる方を恐れる心とへりくだる心、また、いのちを尊び、生かされている喜びと感謝と、自然を慈しむ愛を受け取っています。

 

 神をいのちとして捉える大和の心は、日本の神々の名に「命」とつけて、「○○の命(みこと)」と呼びます。

 水にも、火にも、風にも、あらゆる自然現象に、いのちの働きを認めているのです。

 

 大和の魂には、アブラハムの信仰とよく似た、自然に湧き出る泉のような信仰があるのです。

 これは、全能の神、主の成せるわざなのでしょう。

 アブラハムの血肉のイスラエルが受け継ぐことのできなかった、アブラハムの生けるまことの神への信仰を、大和の魂は脈々と受け継いできました。

 

 大和の魂は日本人だけではありません。外国の人々の中にもあるそうです。

 エルサレムの神殿は崩壊されました。イスラエルの地にユダヤ人たちが住まいを失っただけではなく、イスラエルの神の御住まいも失われました。

 日本の伊勢神宮の外宮の神が、ヤーウェイの神だと密かに語られています。