ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

地上に輝く魂

 

 縄文人は、神の愛を知っていたようです。

 霊において日本の縄文人から、愛を基盤とする生き方を学び、それを実践したとされるアフリカのブンジュ村のシャーマンの村長が、縄文人の生き方をひとりの日本人に伝授されました。

 

 縄文人は、両手で水をすくう時の、チューリップの花のように丸くなった自分の手を「可愛い」と思って慈しんでいたというのです。

 

 縄文人を研究する中の一つに、縄文人は近親相姦で血が濃いので、五体満足ではない子どもが多く生まれていただろうと考える説があるようです。

 今のように医療の技術のない時代ですから、おそらく短い生命だったことでしょう。そのような子どもを悼むものとして、その子どもに似せた土偶がつくられたのではないのか、というのです。

 

 縄文時代の人々は、そのような子どもを神の使いのように思ったのかも知れません。自分たちとかたちの違うからだに、特別な思いを持ったのかもしれません。

 

 縄文人たちは、重荷とみるのではなく、神のメッセージのように捉えたのかもしれません。

 

 生まれた時から重度の障害をもって、話すことも歩くこともできない子どもを育てたあるご夫妻が、「この子は家族の宝です。」と言っておられました。

 その子のあとから生まれた兄弟姉妹も優しく思いやりのある人に成長しています。彼らは、欠けがあると世間にみなされる子に愛を注ぐことで、自分自身の中に愛を育てていたのです。

 

 愛をかけることで、自分自身の中にも愛が育っていたのですね。それは、条件付きの愛ではありません。自分を優位にするために図られた偽りの愛ではありません。心の奥から湧き出る無条件の愛です。可哀そうとか面倒をみなければというような思いではなく、思わず手を差し伸べてしまうような、人の奥底に眠っている無条件の愛です。

 

 神は、終りの時代に、日本人の心に眠っていた、いのちを慈しむ愛を揺り起こしておられます。そして、その火付け役は縄文人の心にあると思われます。

 

 日本の初めは縄文人の世界でした。自然と調和した生き方です。日が昇るとともに活動し、夕陽を見て一日の終わりを感謝して眠りにつく。人間は自然の一部でした。

 

 縄文人は愛を知る人々でした。「可愛い」と心動かされ、慈しんで愛情を注ぐ慈愛に満ちた人々でした。

 愛を流す彼らは、ほかの人もまた愛を流す者であることを知っていました。愛が人格を造り、愛が人々を結びつけており、愛に包まれた世界でした。

 そして、目に見えない愛が生かす力として、すべてのものに満ち満ちている事を知っていたのでしょう。

 

 イエスは、ご自分を羊飼いとして、イエスに聞き従う人々を羊にたとえられました。

 神の羊は、羊飼いの声を聞き分けます。

 イエスは、ご自分の羊を連れ出すと、その先頭に立って行かれます。すると羊は、羊飼いの声を知っているので、イエスについて行きます。

 

 イエスは言われます。

 「羊は、羊飼い(イエス・キリスト)の声を知っているので、彼(神の御子イエス・キリスト)について行きます。

 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たち(偽りの羊飼い、すなわち、天の御国に導くことができず、神の羊たちに救いを与えない、イエスの御霊ではない霊によって導く牧者たち)の声を知らないからです。」(ヨハネ10:3-5)

 

 愛のある縄文人は、愛を知る者です。自分のうちにある愛によって、愛と繋がります。

 愛のない者を見分けることもできます。自分の中にある愛が、愛のない者とは結びつかないのです。

 

 本当に御霊にあって歩くならば、御霊のある者と引き合い、御霊のない者に違和感を感じます。

 

 縄文人たちは、渡来して来たユダヤ人の中に同じものを感じたのでしょう。

 ユダヤ人は、神に愛された民族です。神の民です。

 愛のない者には神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神を知るユダヤ人のうちには、縄文人に通じる愛があったのです。神の民ユダヤ人には、神の愛によって守られ、慈しまれた記憶があります。

 

 縄文人たちは、神の愛を持っているユダヤ人たちを仲間だと認識して受け入れたようです。

 しかし、ユダヤ人ではない渡来人の中には、神がわからない人々もいます。そのような人々とは融合できずにいたのかも知れません。

 

 今、縄文人の心の目覚めの大切さを訴える声が、日本人の中で起こっています。愛を回復しようとしているのです。

 

 縄文人の遺伝子を持つ日本人には容易いことです。まず、いのちを慈しみ、自分自身を愛する愛がじわじわと芽生えていっているのではないでしょうか。

 自分自身を愛するということは、いのちの尊厳を知る第一歩です。自分自身を愛さない者が愛の神に到達することがありません。

 

 日本人は無味乾燥な心で労働して心はやつれ精神が干からびています。休日に自分をいたわってあげましょう。「いつもよく頑張っているね。御苦労様。」といたわって、自分の喜ぶことを見つけてあげてください。また、自分自身に「ありがとう。」の言葉を多くかけてあげましょう。

 

 日本人の心は、多くの場合、自分自身で縛っているのです。自分自身で不自由にしているのです。

 自分と和合するならば、苦難に耐え忍ぶことができます。敵に囲まれても、堅く立つことができます。自分自身が自分を支えてくれるからです。

 

 自分を大切にしてください。自分を赦し、自分を慈しむとき、愛が芽生え、他者を思う心がつくられてきます。愛の神は目には見えないけれども、愛のあるところにおられます。

 

 神は愛です。愛は神の御霊の御住まいです。

 神は、日本人に、大きな期待を持っておられることでしょう。これからの時代に、愛を知る日本人を必要としておられます。

 

 金やダイヤモンドで飾らなくても、その慈しみに満ちた柔らかな心、自然と調和する優しい思い、生きることの喜び、生かされることへの感謝、これらの愛の体験が、地上に輝く魂となるのです。

 

 この輝く魂の鍵は、日本人にあるようです。

 天に満天の星を見上げたときに、人の心に、天に包まれるような安らぎと永遠への思いが満ちるように、地上に輝く魂を御覧になる神と、天上のものは、大いなる喜びに満たされることでしょう。

 

 これから、世界は闇へと向かって行きます。それは、加速していくことでしょう。しかし、日本は、神の召しと守りとを受けて、輝く魂が多く起こされます。愛を知る人々が多く目覚めるのです。

 

 この輝く魂が、世界の闇に希望の光となることでしょう。

 

 現在、イスラエルは多くのアシュケナージと言われるユダヤ人たちの国です。イスラエルでは、ユダヤ人の女性から生まれた子どもをユダヤ人として承認し、また、ヤコブの血肉の子孫でなくてもユダヤ教徒であるならばユダヤ人に数えられるようです。

 ユダヤ人の女性が白人と結婚するならば、肌の白い子どもが生まれることでしょう。

 

 アブラハムはセム族の人で、セム族はアジア系の有色人です。しかし、イスラエル共和国のユダヤ人の多くはヤペテ族(白い肌)系に思われます。

 しかし、ここには、神の知恵があると思われます。

 アジア系の人々がイスラエルの国を建国することはむずかしかったと思います。白人のユダヤ人であるから、ヨーロッパやアメリカなどの援助が得られるのです。

 

 イエスの時代のイスラエル人が有色人種であったように、有色人種の日本人が、肌の白い人にも、黄色い人、赤い人、黒い人にも愛を伝える神の使者、世界を救う希望となることでしょう。