「イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
『よく聞きなさい。種を蒔く人が種まきに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
また、別の種がよい地に落ちた。すると芽生え、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。』
そしてイエスは言われた。
『聞く耳のある者は聞きなさい。』」(マルコ4:2-9)
これは、天の御国の福音を聞く者たちのたとえ話です。
道ばたに蒔かれるとは、同じように、天から来られた神の御子イエスの御国のことばを聞いても、悟らない人のことです。みことばを聞くと、すぐサタンが来て、その人の心に蒔かれたみことばを奪って行きます。(サタンは思いをほかの事に向けさせます。あるいは、サタンに支配される人を来させて、否定的な思いを吹き込むのです。そうして、みことばの記憶を取り去ります。)
目の前に、永遠に価値のある宝があるのに悟らない人です。
岩地に蒔かれるとは、御国のことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、耕されていない石の心には信仰の根がないため、その喜びはしばらくの間続くだけで、みことばのために困難や迫害(世の人々の蔑みや家族の反対)が起こると、すぐにつまづいてしまいます。神への信仰はその人のうちに留まらないのです。
いばらの中に蒔かれるとは、御国のことばを聞いて良いものだとは理解するものの、世の心遣いや、富の惑わし、その他のいろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので(みことばを信じて歩む信仰の道をふさぐので)、実を結ばない人のことです。
毎週欠かさずに礼拝に出席しているものの、心はこの世にどっぷりと浸かったクリスチャンのようです。
御霊を受け入れて、御霊に聞き従うきよい生き方を望んではいません。この世の生き方を優先するのです。彼らにとって福音は、お金を払って保障を得る保険のようなものです。
良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてその価値を悟る人のことで、その人はこの世のものを捨ててでも、永遠のいのちを得るために心を尽くし、御霊の示す道を歩み、本当に実を結びます。
悪い行ないを避け、良い行ないを心がける人は、よく耕された柔らかな心を持ち、生けるまことの神のきよい霊に敏感な魂の人です。御霊を受ける者として整えられています。
彼らは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人です。信仰の実、義の実、愛の実を結びます。神への信仰を持ち続けます。神に喜ばれることを心掛けます。神を愛し神のために命をもささげます。
イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われました。すべての者が聞いて悟るものではないことを知っておられたからです。
神が賜る御国の宝を見出す者は、まれなのです。この世の事で思いがふさがれている人は、見つけることができません。
同じ御国のことばを聞いていても、聞く人によって、結果は異なります。その結果は、だれのせいでもありません。人はおのおの、自分の心で選んでいるのです。
箴言31では、備えのある賢い女のことが書かれています。
よく働き、前もって備えているので、その時が来ても慌てることがありません。
彼女は、ほほえみながらの後の日を待つのです。
イエスのたとえ話によれば、自分の心をよく耕し、柔らかな心を持つ人は、神のみことばを悟る用意がされているのです。柔らかな心でないと、信仰の根が根付かないのです。
今、日本人のうちで霊の目覚めた人々は、きよくなることに思いを向け、身魂のきよめのために心を尽くしているのでしょう。彼らは、天の御国の福音を聞く備えをしているのです。
みことばを聞いたならば、それを悟り、信仰の根を生やして実を結ぶ者となるためです。
耕されていない固い石のような心のままでは、悪い者が来て、心に蒔かれたものを奪って行ってしまいます。
神が遣わされた救世主キリストを信じるためには、幼子のような素直な心が必要です。
神に心を動かされた日本人が、心から偶像を取り除き、本当に大切なもの、自分を無条件の愛で愛してくれる方、また、自分のいのちを守り生かしてくださる方に思いを向け、きよくなることを願うとき、神の御霊は日本に訪れてくださいます。
「わたし(全能の神)は彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心(神に背く頑なな不信仰の心)を取り除き、彼らに肉の心(神を知る柔らかい心)を与える。
それは、彼らがわたしの掟(神のみことば)に従って歩み、わたしの定め(御救いに定める神の御計画)を守り行なうためである。こうして、彼らはわたしの民(神の民)となり、わたしは彼らの神(とこしえの父)となる。」(エゼキエル11:19-20)
石の心が柔らかい心になる人は、砕かれて、水で洗われて、また、砕かれて、内省し、悔い改めて思いの向きを変え、不変で裏切ることのない真実なものに心を向け、目には見えないものに希望を抱きます。彼らの目は、真実な光を求めるのです。
神は、柔らかな心に約束(神のみことば)を告げ、真理の御霊によって真理を悟らせ、神の栄光の光、とこしえの希望をお与えになります。
このような柔らかい心の人々の積み上げられた祈りが、大きな岩(不信仰の岩)を動かし、そして、日本列島に贖いの日が訪れるのでしょう。それは、日本人の御救いのときです。