ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

エデンの園が回復されるためには

 

 キリスト教徒たちが待ち望むのは、キリスト・イエスが再臨されて地上を治められる千年王国です。

 

 そこには、いのちの水の川の流れる都があります。川の両岸には、いのちの木があり、十二種の実が毎月みのります。いのちの木の実は、神が、神の子羊イエス・キリストを拝して罪の贖われた人々に、永遠のいのちを得させるために用意された食べ物です。いのちの木の葉は諸国の民を癒します。

 

 預言者イザヤは、エッサイ(ダビデ王の父親)の根株から新芽(ユダヤ民族の希望となるダビデ)が生え、その根(ダビデ王)から出た若枝(「ダビデの子」と呼ばれるキリスト)によって始まる新しい世界を預言しています。

 

 「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがそれを追っていく。

 雌牛と熊とは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの巣に手を伸べる。

 わたし(千年王国の統治者、イスラエルの王であられるイエス・キリスト)の聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。

 主(神が主権をお与えになった神のひとり子、主キリスト)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」(イザヤ11:6-9)

 

 千年王国では、すべての被造物がひとつのいのち(神のいのち)によって平和に安全に暮らします。争いはなく、武器もありません。人も家畜も獣も、地をはうものも、どの種(しゅ)も、神のことばである神のひとり子の主権のもとに、安心して暮らしているのです。

 

 アダムとエバが暮らしていたエデンの園は、すべての被造物は草を食べ、木の実を食べていました。互いに食らい合うものはいませんでした。

 また、管理が任されてエデンの園を耕していたアダムは、神と交わっていたのです。被造物は、神のことばと呼ばれる神のひとり子とひとつのものでした。

 

 ユダヤ教徒たちは、エデンの園の回復された世界を待ち望んでいます。

 神のいのちと人のいのち、そして、すべてのもののいのちはひとつであり、すべてのものの中に神が存在される世界です。神のことは、人も、すべての被造物も知っています。

 

 すべてのいのちは神の中にあり、すべての種(しゅ)は神を知っているのです。

 神がおられるのに、霊の目がふさがって思いの暗い人間が、神の存在を知ることのできないこの世とは異なります。

 

 「わたしはある。」と名乗られるいのちの根源であられる全能の神、主。

 すべてのもの(被造物)の存在の目的であり、理由であられる、「ある方」(神はほかの何ものにもよらず、御自身で存在し、保たれる方、また、すべての存在の源であり、すべてのものを保っておられる方)なのです。

 

 エデンの園では、アダムもエバも、神のことば(神のひとり子)を知り、見ていました。

 しかし、神のことばに背いて神のひとり子を裏切ったアダムとエバは、罪によって、神のひとり子(神のことば)がわからなくなり、見えなくなってしまったのです。

 

 神は、ひとり子イエスをイスラエルにお遣わしになりました。

 社会的立場や地位もなく田舎に住む猟師たち、幼子のように純真な心のペテロたちは、神のことばに耳を傾けて、イエスを神の御子であることを信じました。

 しかし、思いが閉ざされているユダヤ人たちには、神のことばを見ることも知ることもできませんでした。聞いてもわからない者だったのです。

 

 目があっても見えず、耳があっても聞こえない人間には、神のひとり子も、神のことばも悟ることができません。

 

 ナザレのイエスを見て、イエスが神の御子キリストであることを信じるユダヤ人と、ただのガリラヤ人であると見るユダヤ人とに分かれたのです。霊の目で見る人と、肉の目で見る人とに分かれました。

 

 しかし、回復されたエデンの園(千年王国)では、十字架につけられたイエスが神の御子キリスト(救い主)であることを、すべての者が知るのです。

 

 日本の神道では、大峠(大患難)のあとに、「弥勒の世(平和な世界)」が来ると言われています。

 仏教では、宇宙全体が極楽となる「三千世界」の存在が語られます。全ての天体の宇宙と、霊界と、私たちが生きている物質の世界のこの世とが一つとなって輝くいのちの世界のことなのでしょうか。

 キリスト教では、七年間の患難期のあとで、世が改まり、地上に「千年王国」が建国されると考えます。

 ユダヤ教では、神と人や被造物が調和する「エデンの園」が回復されると考えます。

 

 それぞれ、違うものを目ざしているようで、実は、同じものを見ているのでしょう。

 

 ユダヤ教では、エデンの園の回復のために立ち上がるキリスト(救世主)を待ち望んでいます。

 十字架につけたナザレのイエスがキリストであることを悟らないユダヤ人たちは、イエス・キリストが神の御子であることを信じることができません。

 

 十字架につけたイエス・キリストではない、ほかのキリストを待ち望んでいます。

 神は、キリストを待ち望んでいるユダヤ人たちのために、ふたりの証人を起こされ、神の子羊イエス・キリストへと導かれます。

 ユダヤ人たちは、「イスラエルのメシア」と「アロンのメシア」のふたりの証人の預言と、奇蹟と不思議としるしとによって、神に立ち返ることでしょう。

 

 神は、アブラハムに、アブラハムの子孫が四百年の間、外国の地で奴隷とされること、また、四代目の者たちが、その地(エジプト)を出て、再び、アブラハムに与えたカナンの地に戻って来ることとを語られました。

 

 「四代目の者(アブラハムの子孫)たちが、ここ(カナンの地)に戻って来る。それは(カナンの地の住民である)エモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」(創世記15:16)

 

 神は、カナンの地に住む住民のすべてが悪いものとなったときに、アブラハムの子孫イスラエルに力を与えてその地の住民を聖絶し、イスラエルにカナンの地を相続させられたのです。

 

 神は、アブラハムに誓われました。エジプトのナイル川からイラクのユーフラテス川までの十の民族が住むカナンの地を、アブラハムの子孫(イスラエル)に与えることを。

 

 神は、その地(ナイル川からユーフラテス川までの土地)のすべての住民の咎が満ちるときを待っておられます。住民のすべてが悪いものとなるときに、イスラエルを救う方、神の御子イエス・キリストが天から来られ、滅ぼされます。

 

 反キリストが支配する三年半の大患難期が満ちると、神が荒野に隠しておられたユダヤ人たち(正統派のユダヤ人たちでしょうか、あるいは、レビ人たちでしょうか。)が現われて、天に向かって「主よ。来てください。」と叫ぶのでしょう。

 ユダヤ人の時に、ユダヤ人のほとんどが御救いを受けて息絶えました。彼らは、十字架のイエスが主キリストであることを悟ったのです。

 

 神は、律法に覆われた心が固くてイエス・キリストを告白できなかったユダヤ人たちを憐れみをもって荒野へと導かれ、反キリストの目から隠して、三年半の間、先祖たちが荒野で養われたように、神御自身が養われます。彼らは、残りのユダヤ人たちです。

 彼ら(残りのユダヤ人たち)の叫びに答え、イスラエルを救うお方、キリスト・イエスは、天にある軍勢を伴い、やって来られます。

 

 そして、イスラエルの敵を滅ぼされるのです。

 

 こうして、イスラエルの王イエス・キリストは、ナイル川からユーフラテス川までのカナンの地を、イスラエルの相続地とされます。

 キリストは、破壊者である悪魔を縛り、千年の間、底知れぬ穴に封印して、世を改め、悪魔のいない世界で平和な世を治められます。

 

 現在は、御霊の器の祈りによって、被造物の贖いが促されている時です。

 身魂をきよめ信仰によって義とせられて真理の御霊を受ける人々が起こされるでしょう。

 大峠で、神に立ち返るものと神に立ち向かうものとにはっきりと分かれるでしょう。

 

 大峠のあとで起こされる新しい弥勒の世は、贖われたもののためにあります。

 世の人々が暴虐に満ち、おごっている間に、着々と、御霊によって、贖いのわざが進められていくことでしょう。

 

 エデンの園を回復するのは、魂の回復の先にあるのです。