ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

切羽詰まった信仰

 

 その家には、イエスのみことばを聞こうと多くの人々が集まっていました。戸口のところまで隙間もないほどになりました。

 

 「そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床につり降ろした。

 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。

 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。『この人(イエス)は、なぜ、あんなことを言うのか。(「あなたの罪は赦された。」などと言うのか。)神をけがしているのだ。(罪を赦す権威は神にしかないのだ。自分を神とするイエスは、まさに聖なる神を汚す罪人だ。)神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。(罪を裁くのは神だけだ。赦すのも赦さないのも、神御自身によるのだ。)』

 彼ら(律法学者たち)が心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。

 『なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、「あなたの罪は赦された。」と言うのと、「起きて、寝床をたたんで歩け。」と言うのと、どちらがやさしいか。

 人の子(神から遣わされたキリスト・イエス)が地上で罪を赦す(神の)権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。』

 こう言ってから、イエスは、中風の人に、『あなたに言う。(今まで霊に縛られて不自由だった身体を起こして)起きなさい。(あなたは健やかになった。)寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた。

 すると、(イエスのことばどおり)彼(中風の人)は(癒され、健やかになって)起き上がり、すぐに床を取り上げて、みな(群衆)の見ている前を出て行った。

 それでみなの者がすっかり驚いて、『こういうことは、かつて見たことがない。』と言って神を崇めた。」(マルコ2:3-12)

 

 癒しの力は、神から出ていました。神の御子イエスは、ご自分を遣わされた父(天の神)のなさることを行なったのです。

 イエスの語るみことばも、イエスの行なう癒しや奇跡やしるしも、イエスのわざのすべてが、神の栄光の現われでした。ユダヤ人たちは、イエスを見ながら、神御自身を見ていたのです。

 

 彼らは、神を崇めました。宗教のように、イエスを教祖に祭り上げたのではありません。ユダヤ人たちはみな、神を知っていたのです。神以外に、このような力があるとは考えませんでした。イエスのわざを見て、確かに神はユダヤ人とともにおられることをたたえ、そして、目に見えない神を崇めたのです。(イエスの名は、「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)」なのです。)

 文字の律法に心が塞がれているユダヤ人たちは、イエスを見て、霊なる神を体験しました。神は、ユダヤ人とともにおられ、イスラエルに現われてくださったのです。

 

 しかし、知識を誇る律法学者たちは、自分たちの知恵と知識によって捉えました。無学な人々がイエスに翻弄されても、律法を知る自分たちはイエスに騙されることはない。彼らは、神のひとり子イエスよりも高い者でした。

 

 イエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて中風の人の床をつり降ろした、という記事を見た時、他人の家の屋根に穴をあけるなんて何という事をするんだ、と私は快く思いませんでした。

 しかし、聖書はその事には触れていません。この世の常識で考える人間の私は、「イエス様はこの事を何とも思われないのでしょうか。」と、妹のマリアを訴えたマルタのようでした。

 

 ユダヤ人は、神の民です。彼らの国の中心には、いつも神という存在がありました。神と離れた日常は、彼らには一日も無かったと言っても良いかと思います。

 彼ら(ユダヤ人)は、神の栄光を見て、ともに神を崇める国民です。その家の持ち主は、屋根に穴があいた事よりも、自分の家に、神の栄光を見ることができたことを誇らしく思ったのかもしれません。

 

 また、イエスは、彼らの信仰を見て、中風の人の罪を赦し、また、罪が赦されたしるしを与えられました。寝たきりの不自由な中風の人のからだは、自分で起き上がり、また、立って歩くことのできる健康なからだとされたのです。

 

 中風の人は、もはや病む人ではありません。彼は、床を取り上げて、群衆の見ている前を出て行ったのです。

 身体が癒されただけではありません。イエスによって罪を赦された彼は、心も自由となったのです。

 

 それを見ていたユダヤ人たちはみな、すっかり驚いて、神を崇めました。

 

 罪が赦されると、その人を縛っていた悪しき霊は離れて行きます。悪しき霊から解放された人は、身体も魂も回復されます。イエスのことばを信じ受け入れたからです。

 

 もし、この中風の人が、「あなたの罪は赦されました。」とイエスに言われたとき、「私は、中風のからだを直してほしいのに、何を言っているんだ。」と思ったならば、この癒しは起こらなかったのかもしれません。

 

 中風の人は、律法学者たちのように疑い深い者ではありませんでした。四人の人もまた、イエスならきっと直してくださると信じて、また、戸口がふさがっているならば屋根から降ろそうと考えて、大胆に屋根をはがし、穴をあけてイエスの前に、寝たままの中風の人を床ごと、つり降ろしたのです。

 

 四人の人の信仰も、中風の人の信仰も、イエスに向けられていました。群衆もまた、目の前で中風の人が癒されるという奇蹟の見られることを、大いに期待したことでしょう。

 

 「子よ。あなたの罪は赦されました。」ということばにつまづいたのは、律法学者でした。彼らは、イエスに対しての信仰を持っていなかったのです。イエスに何も期待していませんでした。

 イエスが行なう癒しの噂を聞いても、イエスを疑いの目で見ていました。イエスが神から出た方であることが信じられない彼らは、イエスに神の栄光を認めることがありませんでした。

 

 イエスは、中風の人に癒される信仰があるのを御覧になりました。また、律法学者たちのうちに不信仰とつぶやきがあるのを御覧になられました。

 その家の中は、イエスへの期待と神への信仰がまさりました。中風の人には癒される信仰が備わっていました。それは、四人の信仰に支えられていました。

 

 中風の人は、イエスを神のように見ていたことでしょう。イエスのことばを宝のように受け取ったことでしょう。罪が許されたことを、喜びをもって受け取ったようです。イエスへの期待に満ちていました。

 この方にすべてをゆだねよう、イエスが良くしてくださるに違いない。イエスの、「あなたの罪は赦されました。」という宣言は、彼の魂を癒しました。罪が赦されたことを彼の魂は喜びをもって受け取ったことでしょう。

 

 魂が自由になると、ただ、神への感謝が湧き起こって来ます。忠風のからだであっても、健康なからだであっても、大きな問題ではありません。心は軽く、神への感謝で満ち溢れます。

 「子よ。」というイエスのことばを受けたとき、中風の人の霊は、自分を造ってくださった神のひとり子の前にいたのです。

 

 中風の人の霊は回復し、魂も回復し、身体が回復しました。彼は、おるべき場所に帰ったのです。彼は、目の前のイエスのうちに神を見ました。そして、彼の霊も、魂も、身体も神に立ち返りました。

 

 床に寝ていた中風の人は、神を知る者となって、自分の足で歩いて家に帰りました。彼は、イエスに神を見、神に出会いました。彼が神を知る前から、彼は神に知られていたのです。彼は、自分は神に愛された者であることを知りました。

 

 イエスのみことばを聞いて、信じて従った弟子たちは、無学な漁師たちでした。

 イエスのうちに神の愛を見たのは、ユダヤ人たちからのけ者にされていた取税人や遊女たちでした。

 

 正規の学問を学んだ律法学者たちは、イエスを疑いました。それで、イエスのうちに神の愛を見ることができませんでした。

 彼らの知識は、彼らの救いとはなりませんでした。

 

 知識がなくても、人はイエスのうちに、神の力を見ることができます。律法を守ることができなくても、人はイエスのうちに、赦しを見ることができます。不品行の罪にとらわれていても、人はイエスのうちに、救いを見ることができます。

 

 中風の人も、取税人も、遊女も、自分のうちに良いものがないことを認めていました。彼らの中に誇れるものはありません。自分自身のうちに望みの光を持っていませんでした。

 

 彼らの望みは、彼らの外にありました。救うものは彼ら自身ではなかったのです。自分に悲観していましたが、彼らユダヤ人は神の民です。神を失ったわけではありません。

 

 「取税人は(神の宮から)遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様。こんな罪人の私をあわれんでください。』」(ルカ18:13)

 

 一方、パリサイ人は、神の宮の前に立って、心の中で祈りました。

 「神よ。私(パリサイ人)はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のよう(な罪人)ではないことを、感謝しています。

 私は週に二度断食をし、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。(私は律法を守り、神の御前に正しく歩んでいます。)」(ルカ18:11,12)

 

 パリサイ人は、神の御前に出て、自分の正しさを神に申し上げました。取税人は、神に目を向けることができず、神の宮から遠く離れて立ち、神のあわれみにすがりまました。

 

 神のひとり子のイエスは言われました。それは、人間には理解できないことでした。

 神にあわれみを請い、神の憐れみにすがった、取税人が、神に義と認められて家に帰ったと言われたのです。

 律法を忠実に守っているとみられる、パリサイ人ではありませんでした。律法から外れている取税人のほうが、神に義と認められたのでした。

 

 イエスは言われます。

 「なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:14)

 これが、天の御国の法なのです。天の法に従って生きられる天上のイエスは、地に住む人々に、天上のあり方を教えられました。

 

 義人は信仰によって歩む人です。また、へりくだった信仰は人を義とします。切羽詰まった状況の中に、その信仰の入り口があるようです。

 

 神は、にっちもさっちもいかない状況の中に、憐れみの光を照らし、彼の信仰を引き上げてくださいます。

 人の望むところではなく、また人の目に光が見出せないところ(切羽詰まった状況)に、真理の光が隠されているようです。

 

 脱出の道が見出せず、いさおしがなく、切羽詰まったとき、なお渇望する信仰に、神は真実に答えてくださる方のようです。