ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

日本はよくなっています

 

 今、日本の多くの人々が目覚めて、これから来ようとしている新しい世界のために、備えをする人が起こされているようです。

 きっかけは、スピリチュアルであったり、自分の霊的感覚であったり、人それぞれですし、その方法も神社巡りであったり、寺院巡りであったり、まちまちでしょうが、何か身魂をきよめることに心を向ける人々が起こっているようです。

 

 神は、二つの幻を見せてくださいました。

 

 神は、私の目の前に、まっ白な平地を見せてくださいました。木の生えた森の道の奥にその場所がありました。まっ白なのは、雪が積もっているのでしょうか。

 だれの足跡もなく、美しくなめらかな白い平原です。しかも、その場所は、山の上のようでした。

 

 白く広がるその地には、木一本草一本生えていません。

 すると、人手によらず、地が掘り起こされて行きます。白い雪の下から土の色が掘り起こされます。「せっかく、きれいになっていたのに。」と残念に思う私ですが、土はどんどん堀り起こされ、白い部分は土に飲まれてしまいました。

 

 掘り起こす深さは、表面だけではなく、地中深くに及んでいます。すると、土に混ざって木の根っこやいろいろな物が掘り出されて来ました。

 

 白く美しかったその土地には木がありませんでした。そこに辿り着くまでは、森の中の道だったのに、視界が開けたと思ったら、草も何もない平地となっていたのです。

 

 その時、私の頭の中に、「不毛の地」という思いが湧いてきました。

 白く美しく見えた地は、木を生やすことのない地、いのちを育まない不毛の地であると思ったのです。

 

 神が、深く土を掘り起こすと、その地を不毛の地としている木の根っこや何やらが現われて来ました。

 その地は、この世の思いや欲望の木を伐採した地のようですが、神は、この地を神の国の実をならす、いのち溢れる土地にされるのでしょう。

 

 身魂をきよめることを心掛けて、この世の思いで塞がれていた心に光が差し込みました。この世の人々の間では、きよいことに敏感な人となっていますが、永遠のいのちの道に辿り着いているわけではありません。神は、神の国のきよさに引き上げようとされるようです。

 

 人は、白い地を見てきれいに整ったと思いますが、神は心の中を御覧になられます。神は、人の心掛けや良い行ないではなく、人の心を御覧になられます。

 

 神は、心からいのちを妨げる不毛の原因の傷やしみやしわを取り除きたいのです。それは、人を縛っているものです。

 人の中には、だれにも言えない悲しみや傷や嘆きや不満や憎しみや我慢、憤りがあるのかもしれません。それは、聖なる神の御前に出ることをためらわせる負の財産です。その人にとっては、捨て去ることのできない思い出や感情かもしれませんが、神は、それを捨てることを願われます。それらは、その人を幸せにするものではないからです。

 

 手放せないと思っているのは、自分の中で元気に働き、支配している罪の成せるわざです。表面をきれいにしても、心の中にそれが巣食っている間は、罪の奴隷のままなのです。

 

 罪を取り除くのは、神のわざです。神の子羊の贖いの血に、罪から解放する力があるります。神の助けがなければ、もとに戻ってしまいます。真の解放とは、心から罪の根が取り外されたときにやって来ます。

 

 この罪は、悪しき霊の働きであり、長い間、悪しき霊にお世話になって来た人間は、自分と悪しき霊の区別もつきません。悪しき霊の性質が自分の性質だと思ってしまっているからです。

 

 神は、きよくなることを求める人々のうちに働いて、過去を思い起こさせて取り除いていかれます。

 過去に逆戻りする泥沼に足がすくわれて、にっちもさっちもいかない苦しみを体験しても、それは良いことです。神は、すべて掘り起こして、がらくたを取り除いていかれます。人が捨てることを承知しないうちはその人のうちにあります。しかし、それを持ち続けていると、過去に持ったことのなかった魂の飢え渇きに苦しむことでしょう。

 

 目から光は消え、何をやっても心ここにあらずという心境になります。

 良いものになろうとしているのに、闇に向かっているように感じます。しかし、神のなさるきよめのわざを拒まないで、抵抗する力を失った時に、神の御手が働かれます。

 

 神は、土の中のがらくたを掘り起こされます。人は、ただ見ているだけです。そのうち、人は、あんなに抵抗してまで守るほどのものではなかったことに気づきます。すると、闇だった心に光が差し始めます。

 「生きている。」という喜び、「生きていてもいいんだ。」という安心感が、理由もなく流れ込んで来ます。

 

 神は、表面だけの不毛の美しさではなく、地に根づくいのちの美しさを日本人に与えたいのです。

 神は、心を取り扱われます。神に降参し、神にゆだねた者から、解放されて行きます。

 

 私は、畑の土を深くまで掘り起こしません。根が張るくらいの領域を、20、30cmくらいの深さを柔らかくするだけで、あとは毎日水をやったり、肥やしをやったりしています。

 

 隣の畑の人は、地中深くまで掘り起こします。1mくらいの深さに到達するまで、毎日少しずつ作業します。

 そして、長い日数をかけて掘り起こした土地に、苗を植え、あとは放りっぱなしです。肥やしをあげません。水もあげません。

 それなのに、立派な野菜ができるので驚きました。

 

 私の畑は、毎日水をやり、肥やしも適度にやっているのに、みすぼらしい出来の野菜もあります。

 土を深く掘り下げることは、大事なことなのだと思いました。

 

 神は、ただきよいだけではなく、いのちの実りのある土地にされるのでしょう。それは、忍耐の時です。しかし、そこを忍耐すると、実りを得る者とされるのです。

 人の努力で到達するきよさではなく、神の保証を受けるきよさとされるのです。魂の解放と自由、恐れのない喜び、平安を手にするのです。

 

 もう一つの幻は、不純物のない、純粋で聖い空気です。

 神によって造り変えられた人の口からは、神への感謝と喜びと賛美が溢れて来ます。地上に彼らがいるだけで、地上をきよめ、いのちを与えるようです。彼らの呼吸は、肉体を生かしているだけではなく、魂を生かしているのです。神によってきよめられた人の霊が神と繋がり、神からのいのちを得ているからです。

 

 神からのいのちは、生ける水の川の流れです。生ける水の川が、その人のうちから流れ出るのです。いのちの水の泉があちらこちらにできるならば、日本列島は、いのちの国土となり、新しいいのちを生み、新しいいのちを育む国となるでしょう。

 

 神に新しく造られた聖徒たちの息には生かす御霊のいのち(永遠のいのち)があるのです。

 聖徒たちが増えれば、この世の悪や汚れで視界が悪くなっていたのが、霊の目が晴れて、混ぜ物や偽りを見抜く感覚が開かれてくるのです。

 

 御霊の器や新しく造られた民の祈りと呼吸は、日本国の霊の目覚めを促すことでしょう。彼らは、存在しているだけで、再生のいのちが地に流れ、霊的不毛の地にもいのちの水が流れ潤していくのです。

 

 だれでも、創造主の手の中に入るならば、その人は新しく造り変えられます。

 だれでも新しい創造をしてくださる真理の御霊によって造り変えられた者は、いのちを生かす方によって、新しい人となるのです。

 

 「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント第二5:17)

 

 外国の神と思っていたイエス・キリストが、実は、天地万物を造られた「天の神」(日本人が和名で知っている「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」)から遣わされた「永遠のいのちを与える救い主」であることを知るのは、すぐそこまで来ているのかも知れませんね。