ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

癒しの油

 

 「だいたい、うまくいっている。」それが、しばらく前に神から語られたことばでした。

 

 「だいたいかぁ。じゃ、完全ではないということかぁ。」と思いました。「でも、うまくいっているならば、まあ、いいか。」と心を励ましました。

 

 ところが、先日、「うまくいっている。」と語られました。「だいたい」が取れました。全体的に見て、うまくいっているようです。

 

 これは、日本における救いに定められた人々の状態が良い方向に向かっているという意味です。

 日月神事において、神は、大和の心の人々の救いについて示しておられます。日本においては、おおよそ四割ほどの日本人が持つ心です。世界の国々の中にも、大和の心を持つ人々がいるようです。日本人だけではないのですね。

 

 残りの六割の日本人の事を言っているのではありません。神が救いに定めておられる大和の心の日本人の状態が良い方向に向かっているという事なのです。

 それ以外の人々がどんなに悪い者となろうとも、心に光を求める魂として目覚めて来たということです。

 

 神に遣わされた「人の子」は、天において永遠に生きておられた神のひとり子でした。イエスは言われました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」(マタイ9:6)そして、罪の赦しの宣言とともに忠風の人を癒されたのです。

 

 罪がその人を縛っていたのです。白い御座の裁き(最後の裁き)に神とともに座される神のひとり子(神の御子イエス・キリスト)が罪を赦されると、御子イエスによって罪が赦された地上に住む人は、罪の呪いから解放されるのです。

 

 人の目には罪もその解放も見ることができません。

 しかし、神は、肉体を持つ人間にわかるようにされました。罪に縛られ自由がきかなくなった身体に癒しの油が注がれると、病から解放されます。人々は病から解放される姿を見て、神の力が働いたこと、また、癒しをもって罪の存在を知るのです。

 

 イエス・キリストは、罪の赦しの宣言とともに癒しの油を注がれます。

 人はみな、魂に傷を負っているのです。霊は純粋なのに、魂は悲しみを知り、痛みや苦しみを知っています。産道を抜け出るときの苦しみと恐怖と痛みが、人生のスタートなのです。

 

 人生がスタートすると同時に霊は汚れていきます。純真な霊は神と会話できますが、時間とともにくすんでいき、人間のことばを覚えるうちに、神のことがわからなくなってしまうのです。

 

 神は、魂の傷を御存じです。そして、癒しの油を用意されました。それは、贖いの神の子羊の血であり、神の御子イエスのことばです。

 

 傷ついていない魂は、ひとつとしてありません。すべての魂は生まれた時から、傷がついています。

 なぜ、この家に生まれたのか。なぜ、こんなに悪い環境なのか。なぜ、親は私のことをわかってくれないのか。自分自身の中にいろいろな疑問と不満と悶々とする悩みを抱えています。

 

 神は、傷ついた魂に癒しを与える唯一の創造主です。創造主は、人に完全なすがたを取り戻させることのできる唯一の方です。

 人は、自分のことがわかりません。自分が傷ついた者であることを意識しているわけではありません。いつも、ごまかしながら、精一杯生きているのです。人は、魂の完全な姿を知りません。

 

 本人も気づかずにいます。自分を混乱させる自分の中にある矛盾と向き合うことはありません。

 しかし、自分でありながら、自分ではないような不思議な感覚に度々襲われます。しかし、それを考えると、迷路にはいり込んでしまうようで恐いのです。自分が生きている土台が揺らぎ、生きてゆけないような心持ちになってしまうからです。

 

 その思いは悪しき者から来た思いではなく、真理を知らせるための心のほころびの様なものです。人の意識は神を否定しますが、人の魂は神がおられることを知っているのです。魂は、真理を知って欲しいと願っているのです。意識に上らせてほしいのです。神のみもとに帰りたいとうめいているのです。

 

 神は、神のひとり子のために肉体を造り、罪を赦す権威を御子イエス・キリストに与えて地上に遣わされました。

 

 神のひとり子に罪が赦された者は、父なる神(裁き主)もまたその者を赦し、神はお裁きになることがありません。

 

 神は、人の罪を赦すために、あえて罪を表ざたにされます。それは、その人を辱めるためではなく、罪の呪いから解放するためです。

 神のきよめは、癒しです。癒しが伴うのです。罪を取り除くのに多くの痛みが伴います。しかし、そこには、解放と癒しとがあります。

 

 人となって来られた神のひとり子イエスは、人の痛みも悲しみも苦しみも嘆きも経験されました。イエスは人であって、神の御子です。人の悲しみがわかりつつ、その痛みの原因の罪を取り除き、癒して解放したいのです。

 

 罪とは、神から離れていることです。光を失っているのです。罪があるから闇にとらえられ、希望が持てないのです。罪があるから、光が見えず、愛がわからないのです。愛がわからないから神を見ることができません。堂々巡りで、神のもとに帰ることができないのです。だから、魂はうめいているのです。

 

 神に立ち返るチャンスを与えられて、地球に生まれてきたのに、そのチャンスを掴んでいないのです。生命には限りがあるのに、いつまでもあるもののように思って、のらりくらりと暮らしているので、魂は気が気ではありません。

 

 いろんな矛盾を抱えたまま、「これが人間なんだ。」と賢そうに振る舞っています。

 しかし、神は、がむしゃらになって、罪と戦ってほしいと思っておられます。また、罪からの解放を本気に求めてほしいと思っておられます。

 

 イエスは、ご自分の血で、父なる神と人との和解を成し遂げられました。人にはできないことを、神のひとり子が代わってしてくださいました。神の子羊イエス・キリストは、神と人との仲介者です。

 

 天と地の仲介者であられるイエスのもとに来て、完全な天、全き光と和解することは、今この世で生かされている人々に用意された恵みであり、御救いの道です。

 

 心に暗きもののある人間が、御救いを求めて光を求めるならば、癒し主イエスが手を差し伸べておられます。

 自分で自分の罪を言い表わすならば、神がそれを聞き、慰めと癒しの油を注いでくださいます。罪を赦す権威が与えられた主イエスが仲介に立たれます。神が赦し、イエスが癒し、御霊が慰めてくださいます。

 

 「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし、主(創造主であり裁き主である全能の神)は、私たちのすべての咎を彼(神の子羊イエス・キリスト)に負わせた。」(イザヤ53:6)

 

 「彼(神の子羊イエス・キリスト)は、(神を神とせず、神のいのちから外れて死に向かっている)私たちの背きの罪(神に背を向けて、罪を知ろうとせず、罪を悔い改めることもなく、死へと突き進む、人の上に置かれている罪の呪いである死と滅び)のために(私たちの身代わりとなって)刺し通され、私たちの咎のために(神に従って打たれ、また、)砕かれた。

 彼(十字架にかけられた神の子羊イエス)への懲らしめ(神の子羊イエスが私たちに代わって神に裁かれたこと)によってが私たち(罪のもたらす死と滅びにうめく魂)に平安(罪の赦し)をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。(キリストの血によって私たちの罪は赦され、神との和解を得、平安を得ました。)」(イザヤ53:5)

 

 神の懲らしめは、神の御子イエス・キリストから始まっています。

 私たちが、罪のために懲らしめられるならば、神が、ひとり子イエス・キリストと同じように、私たちを子(神の子ども)として見てくださっているのです。

 

 神は、懲らしめとともに、和解と癒しを与え、私たちの心に平安を与えてくださいます。