「女が子を産むときには、その時(分娩の時)が来たので(女は)苦しみます。(子を産むことは、死んでしまう母親もあるほどに、女の命がけの役目です。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人(赤ちゃん)が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛(陣痛)を忘れてしまいます。
あなたがたにも、今は悲しみ(十字架につけられるイエスとの別れによる悲しみと、師であるイエスを失う不安と信仰の望みの喪失)があるが、わたし(イエス)はもう一度あなたがた(弟子たち)に会います。そうすれば(イエスの復活の姿を見ると)、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(復活のからだのイエスに会う弟子たちの喜びは、とこしえの希望となり、キリスト信仰は弟子たちから失われることはありません。)」(ヨハネ16:21,22)
イエスは、新しく生まれるためには、母親の産道を通って世に出て来て、その痛みと苦しみゆえに「おぎゃあ」と泣き叫ぶ赤子(肉の子)のように、御霊によって新しく生まれる者もまた、痛み(悲しみや嘆き、霊的な苦痛)が伴うことを教えられました。
また、永遠に生きる「新しい人」が創造されるためには、人は、もう一度、生まれなければならない、と言われました。母の胎から生まれるのではなくて、御霊によって新しく生まれなければならない、とイエスは語られました。
「まことに、まことに、あなたに告げます。(わたし〈イエス〉は真実を告げます。)人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)
新しく生まれるとは、どういうことでしょうか。
キリストがお与えになる御霊(もうひとりの助け主)によって、肉の思いを御霊の思いに、肉の願いを御霊の願いに、また、地上の目に見えるものから天上の目に見えないものに目を向け、肉眼ではなく霊の目で見、肉体の耳ではなく霊の耳で聞く者に造り変えられる、ということです。
地上に生まれるとき、人は女から肉体をもって生まれます。天上に生まれるには、人は御霊によって生まれなければならないのです。
地上の人間の生き方を「古い人(生まれたままの人間)」の生き方とし、天上の生き方をする「新しい人(御霊によって新生し、心を一新して御霊とともに歩む新しい『御霊の人』)」に生まれなければ(すなわち、永遠のいのちである「聖霊」を受けなければ霊の目は開かれません。)、肉の目では、神の国(神の栄光)を見ることはできないと言われたのです。
(神の国を見ることができない者〈神の栄光を見、神を賛美することのない者〉は、霊が閉じており、神の栄光をあかしすることもなく、神の国に到達することはできません。)
神に遣わされた神のひとり子イエスがイスラエルに新しい律法を与えたことで、神は、「肉の割礼」を古い契約のしるしとされ、新しい契約のしるしを「御霊による心の割礼」とされました。
また、神は、モーセがイスラエルに与えた「文字の律法」を古いとされ、神の御子イエスが与える真理の御霊「心に書きつける律法」を新しい律法とされました。
神は、最初の契約を「旧約聖書」とし、神がイスラエルに遣わされた救世主イエス・キリストの記録の書を新しい契約「新約聖書」とされました。
神がイスラエルにお与えになった「聖書」の契約は、契約どおり(神がモーセに告げられたとおりに)神が、モーセのようなもうひとりの預言者(世の罪を取り除く神の子羊イエス・キリスト)を世に遣わされて、神の祭司の国民イスラエルが屠ることで、成就しました。
神と神の祭司の国民イスラエルとの契約は、神の子羊イエス・キリストによって成就しました。
また、神は、神の子羊イエス・キリストによって成就した、最初の神の契約を古いとし、イスラエルと神の子羊イエス・キリストとの間に、新しい契約をお与えになりました。
神は、旧約聖書で預言されていたとおりに、イスラエルに遣わした救世主「イスラエルを贖う神の子羊イエス・キリスト」の御救いのみわざ(十字架の死と子羊の血)によって、契約を完了し、最初の契約を古いとされました。
また、神は、新約聖書で約束されたとおりに、神の御子イエス・キリストの御名によって遣わされる「真理の御霊」によって、新しい契約を成就されます。
イエスは言われました。
「まことに、まことに、あなたに告げます。(わたしは真実を言います。)人は、水(悔い改めによるきよめと罪を贖う神の子羊〈救世主〉への信仰告白)と御霊によって生まれなければ(真理の御霊〈生かす御霊〉を受けて新しい人に変えられなければ)、神の国にはいることができません。(天の御国は、永遠のいのちを得させる「真理の御霊」によってはいるところなのです。)」(ヨハネ3:5)
祭司長たちがイエスを捕えに来たとき、ペテロは持っていた剣を抜き、大祭司のしもべの右の耳を切り落としました。
「そこで、イエスはペテロに言われた。
『剣をさやに収めなさい。父(神)がわたし(神のひとり子イエス)にくださった杯(十字架の苦しみ)を、どうして飲まずにいられよう。」(ヨハネ18:10,11)
イエスは、父がお与えになられたものは、それが苦難であっても、お受けになられました。
ゲッセマネの祈りで、イエスはこう祈られました。
「アバ、父よ。(全能の神の)あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯(十字架の苦しみ)をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたの御心のままを、なさってください。」(マルコ14:36)
「わが父よ。どうしても飲まずにすまされぬ杯でしたら、どうぞ御心のとおりを(この身に)なさってください。」(マタイ26:42)
イエスは父に、自分の苦しみを正直に打ち明け、その苦しみが取り去られることを父に請い、祈られました。
しかし、ついには、「どうぞ父の御心のとおりに、御心のままをなさってください。」と父の御心にゆだね、自分を父に明け渡されました。
イエスは、父なる神に正直な人でした。ロボットのように従ったのではありません。つらいことは「つらい。」苦しいことは「苦しい。」と心にあるままを打ち明ける素直な子どもだったのです。
人の子イエスは、自分の中の葛藤の後に父に従った、信仰の勝利者だったのです。
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方(全能の神)に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そして(自分自身を神にゆだねる)その敬虔ゆえに(父なる神に)受け入れられました。
キリストは御子(神のひとり子)であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって(神への)従順を学び(神に忠実に従う歩みを全うし)、完全な者(神のみことばのうちを歩み、神に完全に聞き従う者)とされ、彼に従うすべての人々(キリストの弟子たち)に対して、とこしえの救いを与える者(永遠のいのち〈真理の御霊〉を授けるキリスト〈救世主〉)となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司(神のまことの聖所で仕える平和の王、とこしえの大祭司)ととなえられたのです。」(へブル5:7-10)
永遠のいのちを得るようと神に召された神の子どもたちは、信仰の勝利者となるために、信仰者の模範を、人の子イエス・キリストに見ることができます。
「イエスは、ご自分の前に置かれた喜び(十字架の勝利によって、神が必ずお与えになる主権と光栄ととこしえの国の喜び)のゆえに、はずかしめ(ご自分の国民であるユダヤ人たちに嘲られののしられ捨てられたユダヤ人の王イエスの辱しめ)をものともせずに十字架を忍び、(死から甦り、栄光のからだで)神の御座の右に着座されました。
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方(神の子羊イエス・キリスト)のことを考えなさい。(神に従順な神の御子イエス・キリストの信仰の歩みを模範としなさい。)それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(へブル12:2,3)
信仰の勝利者たちには、天の御国の相続が約束されています。
アブラハムから始まった、信仰の勝利者たちがその信仰によって得られる神の御国を証言しており、彼らの信仰のあかしは、雲のように私たちを取り巻いています。
彼らは、信仰の勝利を得るために、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、信仰の歩みを全うしました。
「信仰の創始者(真理の御霊によって、一度死んでも死から甦る新しい人に造り変えられ、復活のからだを着て、キリストとともに天の御国を相続するという約束の伴う「信仰」の創始者)であり、完成者である(イエス・キリストご自身、一度死なれましたが死から甦られ、御霊の与えられる復活の新しいからだを着て、天に帰られた。)イエスから目を離さないでいなさい。」(へブル12:2)
「(イエスの信仰にならいて)私たちも、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、私たちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではありませんか。」(へブル12:1)