神は、世の終わりに、新しい世界「千年王国」を地上に建てられます。
地上に建てられる新しい世界は、古神道が「草木も喜ぶ(被造物すべてに癒しと平和が訪れる)弥勒の世」と呼ぶ世界であり、仏教が「地上界と霊界と天界が一つとなって調和のとれた三千世界」と呼ぶ世界であり、キリスト教が「イスラエルの王キリスト・イエスが統治される千年王国」と呼ぶ世界であり、ユダヤ教が「創造主である神と神の被造物とが調和するエデンの園の回復」と呼ぶ世界です。
神は招いていた者たちを呼び集められます。
今がその時です。
神は、その世界にはいって憩いを得る人々に、「婚礼の礼服」をお与えになるのです。
千年王国は、争いも武器もない平和な世界です。貧しい者も虐げられる者もいません。慰めと癒しと喜びとがあります。神の愛が満ち満ちているからです。
神は、招いていた人々がその世界にはいるために、ふさわしい「婚礼の礼服」をお与えになります。
神のひとり子キリストは、キリストとひとつ心の忠実な花嫁を得られました。十四万四千人の汚れのないユダヤ人です。
神は、ひとり子キリストのために、地上に、結婚の披露宴を設け、千年の間、祝宴を催して祝われます。
地上最後の千年間であり、神に招かれた人々が天の御国(新しい天と新しい地)に住まう神の子どもとして整えられるための、仮庵です。
この仮庵のときに、最後の御霊の教会が完成します。
仮庵の祭りを祝うために都にやって来る者たちは、キリストのもとに集められて、都の中にあるいのちの木の実を食べて、神の子どもとされるのです。千年王国の仮庵の時が完成すると、「白い御座の裁き(最後の裁き」のあとで、新しい地に住まう神の子どもたちが、キリストのもとに集められます。
約束の神代の世界が、地上に現わされるときが近づいています。
神は、今、招待しておいた人々(キリスト者)に、「婚礼の礼服」(キリストの贖いの血とキリストの御霊ときよい生活を願う新しい心)を与えようと働いておられます。
しかし、信仰によって生きていないキリスト者たちは、いつもどおり、この世の生活をほかの人々と同じように歩んでいます。彼らは神の導きを悟ることができず、新しい世が始まることがわかりません。
神の啓示を語る人々を疑い、嘲笑います。そして、憎む人々までいます。彼らは、神が与えようとされる「婚礼の礼服(千年王国にはいるための信仰と良き行ない)」をまるで必要のないものであるかのように、蔑んでいるのです。
神は仰せられます。
「宴会(千年王国)の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。」(マタイ22:8,9)
御使いたちは行って、古神道、神道、仏教、そのほかの宗教の中で熱心に「弥勒の世」や「三千世界」や「新しい神代」を待ち望んでいる人々に、また、宗教を持たないけれども自分自身の霊で感じて終わりの時に備えていた人々に「真理の御霊」を与えます。
その中には、キリストに好意的だった人も、また敵対していた人々もいます。しかし、「真理の御霊」を受けたならば、御霊が真理(十字架上の主イエスが神の御子キリスト〈救世主〉であり、御救いはイエス・キリストのうちにある、という真理)を教えてくださいます。
神は、それらの人々を御覧になられます。彼らは、招待していたキリスト者たちが拒んだために、神の招きに応じなかったキリスト者たちの代わりに宴会場に集められた人々です。
かつて、神は、神のひとり子を、世の罪を取り除いて御救いを得させる救世主として、イスラエルに遣わされました。
神の子羊イエス・キリストはイスラエルに遣わされていたので、ユダヤ人たちのところに行って天の御国の福音を語られました。異邦人たちのところに行かれることは決してありませんでした。
しかし、律法の奴隷となっていたユダヤ人たちは霊の目も霊の耳も閉じており、神が遣わされた者を悟ることができませんでした。
そして、神の子羊イエスを憎んで、殺しました。神は、不信仰なユダヤ人たちを怒り、彼らから彼らの相続地であるカナンの地(イスラエルの土地)を取り上げて、御自分の民ユダヤ人を世界に散らされました。
天の御国の福音の宣教のことばは、不信仰なユダヤ人たちから取り上げられて、異邦人たちに向けられました。
神は、不信仰なユダヤ人たちに代わって、信仰を持つ異邦人たち(神が遣わされた救世主イエス・キリストを信じるキリスト者たち)を、神の御国を相続する神の子どもとして招かれました。
終わりの時に、不信仰なキリスト者たちは神の招きに応じません。すると、神の怒りが彼らの上に留まり、彼ら(不信仰なキリスト者たち)に代わって、キリスト教会の外にいる異邦人(イエス・キリストへの信仰の無かった人々)に御救いが及ぶようになるのです。
彼らは、自分自身を頼みとせず、目に見えないものへの恐れと、聖なる御霊の招きに応じて従う、へりくだった心の人々です。
イエスの母マリアは、御使いの語る神のことばを受けると、処女である自分の胎内に神の御子イエスが宿ることを承諾しました。
マリアは、ダビデの子ヨセフの許嫁です。まだ結婚はしていませんが、夫のある身でした。子を宿すことは、不貞の罪で許嫁のヨセフに離縁されてしまいます。また、夫以外の子を宿すことはユダヤの律法では死刑にあたります。
しかし、マリアは言いました。
「本当に、私は主(全能の神)のはしためです。どうぞ、あなた(御使い)のおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)
マリアは、御使いのことばを信じたのです。
御使いは言いました。
「聖霊があなた(マリア)の上に臨み、いと高き方(全能の神)の力があなたをおおいます。それゆえ、(聖霊の御力により処女であるマリアから)生まれる者(イエス)は、聖なる者(神の聖者)、神の子(神の御子)と呼ばれます。」(ルカ1:35)
マリアは、自分の都合を考えませんでした。ユダヤの律法の呪いを気にかけませんでした。ただ、神のみことばを謹んで受け、喜んで自分のからだを神の御用のために明け渡したのです。
預言者ヨナは、イスラエルの敵国のアッシリアの都市ニネベに行って悔い改めを宣べ伝えるように、と神に命じられました。
その当時、イスラエルは偶像に満ち、神に逆らう国となっていました。預言者たちのことばを、王も国民も誰も聞こうとしません。それどころか、神のことばを語る預言者たちを苦しめていたのです。
神の民イスラエルは神のことばを軽んじ、神を恐れない悪いものとなっていました。神は、ユダヤ人の預言者ヨナを、ニネベの人々が悔い改めて生きるように、とニネベに遣わされました。
イスラエルの敵国の祝福のために、ヨナは従わなければなりません。神は、預言者であれば誰でもよかったわけではありません。ヨナに命じられました。
律法に厳格な預言者であるならば、神のことばであることを疑ったかもしれません。敵国を祝福するのは、律法に反することではないでしょうか。
ヨナは文字の律法にがんじがらめの預言者ではなく、また、常識にとらわれる厳格な人ではなく、生ける神のことばに耳を傾ける素朴な預言者だったのでしょう。
幼子のように純朴なヨナは、敵国を祝福することを良しとせず、御顔を避けて、ニネベとは逆方向のタルシシュ行きの船に乗りました。
しかし、神は嵐を起こして、ヨナを海に投げ込み、大魚に飲み込ませました。大魚の腹の中に三日三晩いたヨナは、自分の不従順を神に悔い改め、生かしてくださったことを感謝し、主をほめたたえました。そして、「救いは主のもの」であることを告白したのでした。
主は、大魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させました。
ヨナはニネベの町を行き巡り、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と言って回りました。
すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着て、神の御前に悔い改めました。彼らは、イスラエルの神が全能の神であることを知っていたようです。
神は、ニネベの人々が悪の道から立ち返るために努力していることを御覧になると、ニネベの人々に下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされませんでした。
神は、ヨナ書をもって、神の子羊イエス・キリストのしるしとなさいました。すなわち、キリストは一度死んで、三日目に甦り、そして、キリストの福音は無割礼の異邦人にまで及ぶことを示されたのです。
神は、預言者ヨナの不従順を、メシアのしるしとされたのでした。
ヨナは、自分の願いや常識を満ち続ける者ではありませんでした。最後には、神の御思いを優先しました。ユダヤ人たちのために召されたイスラエルの預言者なのに、神の都合に立って、敵国のニネベの人々を悔い改めさせました。
十字架を前にしたイエスは、悲しみのあまり死ぬほどにもだえ苦しまれました。
「苦い杯(十字架の苦しみ)をわたし(神の御子イエス)から過ぎ去らせてください。」と父なる神に願われました。
苦しみもだえ血の汗をもって祈られたイエスの辿り着いた境地は、「わが父よ。どうしても飲まずにすまされぬ杯でしたら、どうぞ(父の)御心のとおりを(わたしに)なさってください。(神の御都合がわが身になりますように。)」でした。
神の御国は、神の都合を優先する人々によって、建てられてゆくのです。