ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスによって与えられる信仰

 

 生まれつき足のきかない男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、運ばれて来て、毎日「美しの門」という名の門に置いてもらっていた。

 彼は、宮にはいろうとするペテロとヨハネを見て、施しを求めた。

 ペテロとヨハネはその男を見つめて、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩き出した。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

 

 生まれつき足のきかなかった男が、人々の目の前で、歩きながら神を賛美しています。生まれてから、一度も自分の足で立ったことのなかった男が、神を賛美しながら歩いているではありませんか。

 

 人々は、彼の身に起こったことについて、驚き怪しみました。

 この男がペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、彼らのところにやって来ました。

 

 「ペテロは、これ(不思議に思う群衆)を見て、人々に向かってこう言った。

 『イスラエル人たち。なぜこのこと(足のきかなかった男の足が癒されたこと)に驚いているのですか。なぜ、私たち(ペテロとヨハネ)が自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。

 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たち(ユダヤ人)の先祖の神(アブラハムの神、イサクの神、イスラエルの神)は、そのしもべ(ナザレの)イエスに栄光をお与えになりました。あなたがた(ユダヤ人たち)は、この方(ナザレのイエス)を(ローマ)に引き渡し、(総督)ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方(イエス)を拒みました。(処刑する権威を持つピラトが無罪を言い渡したイエスを、ユダヤ人たちが「十字架につけろ。」と叫び、イエスを処刑することを要求したのです。)

 そのうえ、このきよい、正しい方(罪のない神の御子イエス)を拒んで、人殺しの男(バラバ)を赦免するように要求し、いのちの君(神がイスラエルに遣わされた救世主。すなわち、永遠のいのちを得させるために「生かす御霊」を授ける神のひとり子キリスト・イエス)を殺しました。(ユダヤ人たちは、イエスを処刑するために、イエスの赦免を取り消して、極悪人のバラバの処刑を赦免させたのです。)

 しかし、神は(ユダヤ人たちに十字架につけられた)このイエスを死者の中から甦らせました。私たち(ペテロやヨハネやイエスの弟子たち)はそのことの証人です。(墓に納められたイエスのからだはなくなっており、私たちは、復活のからだのイエスとお会いしました。そして、弟子たちが見ている間に、イエスが天に上げられるさまを目撃しているのです。)

 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰ゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人(生まれつき足のきかなかった男)を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で(癒し)完全なからだにしたのです。(足のきかなかった男の足が癒され健康なからだとされたのは、ペテロやヨハネの特別な力とか信仰深さによるものではありません。死から甦られ永遠のいのちを得させることのできる方、イエス・キリストの御名にその力があります。イエス・キリストの御名には、罪を贖い、罪を赦し、罪をきよめ、神と和解させ、永遠のいのちを得させる力があるのです。イエス・キリストの御名には力があり、イエスご自身が死から甦って死に勝利されたのと同様の「御霊の御力」が働くのです。)」(使徒3:12-16)

 

 ペテロは人々に御救いの福音を語りました。

 「ですから、兄弟たち(同胞のユダヤ人たち)。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たち(祭司や律法学者や長老たち)と同様に、無知(預言者のことばを理解せず、神を知らない指導者たちに従った無知)のためにあのような行ないをしたのです。(罪のない方〈ナザレのイエス〉を十字架につけるように要求したのです。)

 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。

 そういうわけですから、あなたがたの罪(神が、イスラエルの御救いのために遣わされた神のひとり子を信じることなく、聞き従わなかった不信仰と不従順の罪)をぬぐい去っていただくために(神に赦していただくために)、(神の御子イエス・キリストを信じなかったことを)悔い改めて、(神に)立ち返りなさい。(人間の教えではなく、神御自身のみことばを求めて向きを変え、御救いを切に求めている魂の感性を大切にし、理屈ではなくて、うちにひらめく直感を信じて)本心に立ち返りなさい。)

 それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのために(神が)メシアと定められたイエス(十字架につけられて肉に死に、復活の新しいからだで死から甦ったイエス・キリスト。「真理の御霊」を授けて永遠のいのちを得させるメシア)を、主が遣わしてくださるためです。

 (ユダヤ人たちは、メシアは死なない、永遠に生きる方であると信じています。イエスは十字架で死にました。それで、ユダヤ人たちは、イエスが、神が遣わされた永遠に生きるメシアだとは信じられませんでした。しかし、世の終わりには、死に勝利して復活した栄光のからだのイエス・キリストが、永遠に生きるメシアとして来られます。その時、ユダヤ人たち〈おそらく、ラビなどレビ人たち。イエスの時代に、民衆を扇動してイエスを十字架につけた指導者たちの子孫〉は、イエス・キリストがメシアであったことを知るのです。)

 このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。(反イスラエル、反ユダヤ、反キリストの不義の実が熟してその時が満ちるまで、すなわち、神が彼らを滅ぼして世を改める時までは、キリストは来臨されません。)

 モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たち(ユダヤ人)の中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。

 その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。(神の民としての御救いの約束から外される。)』」(使徒3:17-23)

 

 イエスの時代に起こったことが、世の終わりに再び繰り返されることでしょう。

 世の終わりの時代に生きているユダヤ人たちのために、神は、ユダヤ人たちの中から、神のみことばに忠実なふたりの証人を立てられます。(ヤコブの血統のユダヤ人とという意味であって、現在のイスラエル人であるわけではありません。古代ユダヤの信仰を受け継ぐ、神に隠されたユダヤ人です。)

 

 人が主に向くなら、心のおおいは取り除かれます。永遠のいのちを与える主が、人の心に信仰をお与えになるのです。神のみことばを語るイスラエルのメシアに耳を傾けるならば、啓示の霊が注がれます。

 信仰は、人から出たものではありません。神の御顔を仰ぐ(救ってくださる天の神に思いを向ける)ならば、イエス・キリストの生かす御霊が真理を知らせてくださいます。

 

 神は、イエス・キリストの御名に御救いがあることを定めておられます。そして、イエス・キリストの御名により頼む者に、真理の御霊を与えられます。ペテロやヨハネたちの行なったわざや力は、イエス・キリストの御名の中にあるのです。

 

 神は仰せられます。

 「もし、わたしのとりでに頼りたければ、わたし(全能の神、主)と和を結ぶがよい。(神に立ち返り、神と和解すればよい。)和をわたしと結ぶがよい。(神のひとり子イエス・キリストの御名の中にはいり、神のとりでにはいればよい。)」(イザヤ27:5)

 

 神の御子イエスの御名が、イエス・キリストの御名を信じる信仰のゆえに、癒しを行ない、束縛からの解放を行ない、御霊の働きを現わされるのです。イエスによって与えられる信仰が、完全なものにするのです。