ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

悪魔が恐れるイエスの御名

 

 「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」には、「無限の光、無限の恵みをもたらすいのちの仏様、阿弥陀如来(あみだにょらい)を信じておまかせします。」というような意味があるようです。

 

 「南無阿弥陀仏」と唱えることは、「阿弥陀様にすべてお任せします。」「阿弥陀様に心から従います。」と信仰告白していることのようです。

 「南無阿弥陀仏」と唱えることで、阿弥陀如来をたたえ、救ってもらえることへの感謝の気持ちを伝えることになるそうです。

 

 葬儀において僧侶の唱える「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀如来に感謝をささげて、故人が極楽浄土に往生することを願っているのだそうです。

 

 阿弥陀如来(あみだにょらい)は、釈尊(仏陀であり、釈迦如来、すなわち、お釈迦様)の出会った光の実体をさすのではないかと思います。阿弥陀如来は大宇宙のすべての仏(釈迦の悟りに導かれた魂)の師となる方です。

 

 聖書に照らし合わせて見ると、「釈迦如来」は、人の子として肉体をもって地上に現われた神の御子イエスの「人の子」の姿。「阿弥陀如来」は、十字架につけられて人類の罪を贖い、死と滅びに勝利して死から甦り、永遠のいのちと復活の新しい霊のからだで永遠に生きる「神の子羊イエス・キリスト」、すなわち、死から甦る新しい人に造り変える「生かす御霊」をお与えになる「神の御子イエス・キリスト」の姿のように思います。

 

 私は、日本の神道も仏教もキリスト教も、宇宙神であり天地万物を造られた創造主であり、全知全能の主であられる「おひとりの神」を見ているように思っています。

 

 釈迦と阿弥陀については、私は、次のように見ています。

 釈迦は、いのちの根源を知り、創造主を崇め、創造主にへりくだって生命を全うした人の子であり、聖書で見るところの「救い主イエス」の姿。

 阿弥陀は、創造主の御力(聖霊)によって、新しく創造された人、永遠のいのちを得る新しい人であり、聖書で見るところの「とこしえの王イエス・キリスト」の姿。

 呼び名は異なりますが、同じ方を見ているのだと思います。

 

 仏教徒は、「南無阿弥陀仏」のことばに慰めと力を得ます。理屈がわからなくても、「南無阿弥陀仏」と唱えることに力があると信じているのです。

 

 古神道の山蔭神道の継承者にのみ伝承されてきた「アチマリカム(全能の神にすべてをお任せします)」という言霊が、「もう、時がない。」との神のお告げにより、一般の人々にも解禁されたようです。

 継承者にのみ伝承された隠語(秘伝の言霊)であり、山蔭神道に属している人々にも隠されていた言霊が、神の「世に知らしめよ。」とのお告げにより、山蔭流創生神楽宗家の表さんが初めてほかの人々に知らせたのです。それまでは、世に出してはならないとされた山蔭神道の大神呪(言霊)だったのです。

 

 継承はされているものの、先人も現在の山蔭神道の継承者の表さんもだれも、「アチマリカム」の正しい意味を知らなかったそうですが、ヘブライ語の学者によって、アチマリカムは古代ヘブライ語であり、旧約聖書に究極な祈りとして出て来る「アチマリケーム」(「どうぞよろしく御統治ください。」の意味)のことのようだということが判明しました。

 新約聖書には出てこない祈りだそうです。

 

 「アチマリカム」は、古神道山蔭神道に伝わる神呪(神から授かった呪文)であり、天地万物を造られた天地和合、調和の全能者の力を呼び起こし、乱れた地球の秩序を正す神呪、すなわち、神が神道の古儀と古伝を守る古神道山蔭神道宗家に与えられた秘伝の言霊なのです。

 

 世の終わりに救世主が出現すると言われている日本人だから、神の働きを担うための神に隠された神のしもべたちが残っているようです。どんなに近代化した日本であっても、古代からの伝承者たちが隠され、残されていたのです。

 

 山蔭神道だけではなく、ほかにも古代神道を受け継ぐ陰陽師の子孫や八咫烏(やたがらす)や古神道の群れが幾つも現存しています。

 

 キリスト教に、「南無阿弥陀仏」や「アチマリカム」に等しい言霊があるでしょうか。その言葉を唱えたならば、すべての状況において大丈夫というような神言はあるのでしょうか。

 

 ペテロは言います。

 「この方(神の子羊イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

 

 イエス・キリストの御名による癒しも解放も、神のみわざは、神が死者の中から甦らせたイエス・キリストの御名によるのです。

 クリスチャンたちは、あまり実感として受け取っていませんが、実は、「イエス・キリストの御名」の中にすべてがあるのです。

 

 使徒たちは、イエス・キリストの御名によって病人を癒し、イエス・キリストの御名によって悪霊を追い出していました。

 

 自分たちをおびやかすやっかいなナザレのイエスを十字架によって処罰し、自分たちを苦しめるイエスのことばをイスラエルから取り除いたはずだったのに、イエスの弟子たちが「イエスは墓から甦った。」と語り、イエス・キリストの名によって癒しを行ない、イエス・キリストの御名を言い広めているではありませんか。

 

 祭司や民の指導者たちは困り果てて、これ以上民の間に広がらないために、「今後だれにもイエス・キリストの名によって語ってはならないと、使徒たちを厳しく戒めよう。」と言って、イエスの弟子である使徒たちを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じました。

 

 ナザレのイエスを十字架につけた祭司たちは、イエス・キリストの名に力があることを認めていたのです。

 イエス・キリストの名に、癒しの力、解放の力、救いの力があることを認めざるを得なかったのでしょう。だれの目にも、明らかな事実だったのです。

 

 「ペテロとヨハネは彼ら(祭司長たち)に答えて言った。『神に聞き従うより、あなたがた(祭司たち)に聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。

 私たち(イエスの弟子たち)は、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。(イエスが語られたこと、イエスが行なわれたことは私たちが体験した事実であり、私たちはイエス・キリストの御名によって与えられた真理の御霊によって導かれています。ナザレのイエスは、神が遣わされた神の御子キリスト(救世主)であることは確かなことなのです。)』」(使徒4:19,20)

 

 自分たちの目でイエスのわざを見ながら信じず、自分たちの耳でイエスのことばを聞いたのにイエスのことばが神のことばであることを受け入れない祭司たちに、真理はわかりませんでした。

 

 真理は、イエス・キリストご自身だったのです。

 神から出て神のみもとに帰った神の御子イエス・キリストのことばは真理のことばであり、イエス・キリストの御名は永遠のいのちを得させる、唯一の御救いの御名なのです。

 

 「(ユダヤ人の)会堂に汚れた霊(悪霊)につかれた人がいて、叫んで言った。

 『ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たち(悪魔と悪霊ども)を滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。』

 イエスは彼(汚れた霊)をしかって、『黙れ。この人から出て行け。』と言われた。

 すると、その汚れた霊(悪霊)はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。

 人々(ユダヤ人たち)はみな驚いて、互いに論じ合って言った。『これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊(悪霊)をさえ(イエスが命じて)戒められる。すると(悪霊どもはイエスに)従うのだ。』」(マルコ1:23-27)

 

 人々は、イエスが悪霊を追い出されたのを見ると、神の権威のある、新しい教えだと評価しました。

 悪霊どもは、イエスが神の聖者であることを知っていると言いました。そして、イエスは悪魔と悪霊どもを滅ぼすために地上に来られた、と証言したのです。

 

 人間にとって、イエスのわざを見、イエスのことばを聞いても、イエスが神に遣わされたキリスト(救世主)であることを信じることは容易ではありません。

 しかし、悪霊どもは、イエスが神のみもとからやって来た神の聖者、悪魔と悪霊どもを滅ぼす人の子であり、キリストの権威を神から与えられた救世主であることを知っていたのです。

 

 使徒ヤコブは言います。

 「あなたは、神はおひとりだと信じています。それ(唯一神を信じること)は立派なことです。ですが、悪霊どもも(地上には「神」と呼ばれる神々が大勢いるが、天地万物を保たれ、悪魔と悪霊どもを滅ぼして、新しい天と新しい地とを創造される全能者、永遠に生きられる生ける神、永遠のいのちをお与えになる真理の神はおひとりだけである)そう信じて、(悪魔と悪霊どもは、自分たちを滅ぼす神のことば〈神の御子イエス・キリスト〉を恐れて)身震いしています。」(ヤコブ2:19)

 

 イエス・キリストは、唯一神に遣わされた救世主です。

 イエスは、罪人を死と滅び(永遠の火の池)から救い出す救い主であり、悪魔と悪霊どもにとっては、自分たちを踏み砕いて滅ぼし、永遠の火の池の中に投げ入れる、神の聖者なのです。

 

 イエスには、しみも傷もしわもありません。罪がないのです。神のことばです。神のことばが人の子の姿をして現われているのです。

 罪のないイエスに、悪霊どもの足場はありません。悪魔は、イエスを支配することができないのです。

 

 悪魔は、イエス・キリストの御名を恐れています。イエス・キリストの御名には、悪魔の牙城を打ち砕く力があるからです。また、悪魔や悪霊どもを滅ぼす力があるからです。

 

 目に見えるものによって信じるクリスチャンは、イエス・キリストの御名の力を行使していません。その御力がわからないからです。

 イエス・キリストの御名を恐れているのは、人間ではなく、目に見えない存在である悪魔と悪霊どもなのです。

 

 使徒たちの時代の祭司たちがイエス・キリストの御名を恐れたのは、イエス・キリストの御名によって、癒しが起こり、悪霊が追い出されるしるしと奇蹟を見たからです。

 

 悪魔と悪霊どもは、クリスチャンたちが真理の御霊を受けて、イエス・キリストの御名によって命じ、イエス・キリストの御名の力を知ることを恐れています。

 

 イエス・キリストの御名には、悪魔が恐れる「裁きの権威」と「御救いの真理」があるのです。