ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

使徒ペテロの見た神のわざ

 

 聖霊は、ペテロを異邦人コルネリオのもとに行くようにと導かれました。

 割礼の民ユダヤ人にとって、無割礼(神との契約を持たない)民と関わることは律法に反することです。ペテロは、「どういうことだろう。」と思い惑いました。

 しかし、聖霊は、ペテロにどんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示されました。

 それで、コルネリオから遣わされた人たちがペテロを迎えに来ると、ためらわずに彼らとともにコルネリオのところに行きました。

 

 コルネリオは、異邦人ですが、目に見えない神を信じて、信仰に熱心な人でした。

 コルネリオが祈っていると、御使いが現われて、こう言いました。

 「コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。それで、ヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人は海辺にある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。」(使徒10:31,32)

 

 ペテロがやって来ると、コルネリオはペテロを迎えて、彼の足もとにひれ伏しました。

 コルネリオは言いました。「私は神の御告げを聞いて、すぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」と言いました。

 

 神の導きに従うものの半信半疑であったペテロは、口を開いてこう言いました。

 「これで私(ペテロ)は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。(神は、天においても地においても、おひとりの神です。ペテロは、イエス・キリストの父なる神は、すべての被造物、すべての人の神であることに思い至ったのでした。)

 神は(神のひとり子)イエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことば(「神のことば」である聖書と神のひとり子〈ナザレのイエス〉)をお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。(天地万物を造られた唯一の創造主、神のひとり子であり、すべての人の主です。)

 あなたがたは、(バプテスマの)ヨハネが宣べ伝えた(悔い改めの)バプテスマの後、(ガリラヤ地方のナザレの町の人、イエスによって)ガリラヤ(地方)から始まって、ユダヤ全土に起こった事柄を、(噂によって)よくご存じです。

 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方(ナザレのイエス)に聖霊と力(神の権威)を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、(イスラエルを)巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者を癒されました。(悪霊を追い出して解放されました。)

 私たち(イエスの弟子たち)は、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。人々(ユダヤ人たち)はこの方(ナザレのイエス)を木(十字架)にかけて殺しました。

 しかし、神はこのイエスを三日目に甦らせ、(復活の新しいからだで)現われさせてくださいました。

 しかし、それはすべての人々(すべてのユダヤ人)にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たち(イエスのしもべたち)にです。私たち(使徒たち)は、イエスが死者の中から甦られて後、御一緒に食事をしました。

 イエスは私たち(ユダヤ人の弟子たち)に命じて、この(十字架で贖いの血を流した神の子羊)イエスこそ生きている者と死んだ者との裁き主として、神によって定められた方(贖い主であり救い主であり裁き主である、神に油注がれたキリスト)であることを人々に宣べ伝え、その(神の子羊イエス・キリストの)あかしをするように、言われたのです。

 (ナザレの)イエスについては、預言者たちもみな(聖書の預言書の記述にあるように)、この方(神の子羊イエス・キリスト)を信じる者はだれでも、その名(イエス・キリストの権威)によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」(使徒10:34-43)

 

 ペテロは、異邦人のコルネリオを尋ねることで、神の御心を悟りました。

 神は、異邦人にとっても、「神」であるということです。

 そして、神の御心は、ユダヤ人も異邦人もなく、罪の贖いの神の子羊イエス・キリストを信じるすべての人が、イエス・キリストの御名によって罪の赦しを受けて神と和解し、永遠のいのちを受けることなのです。

 

 コルネリオたち異邦人は、バプテスマのヨハネの水のバプテスマを受けていませんでした。バプテスマのヨハネもまた、イエスと同様、ユダヤ人のところに遣わされていたからです。

 

 しかし、ペテロがこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになりました。無割礼の異邦人たちに、聖霊が下られたのです。

 彼らは信仰によって聖霊を受ける備えがなされていた人々です。神を恐れかしこみ、正義を行なう彼らは、神に受け入れられていたのでした。

 

 割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たち(ユダヤ人たち)は、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚きました。

 

 聖霊は、イエスのことばを信じてイエス・キリストに聞き従う弟子たちが受ける賜物ではありませんか。

 しかし、目の前で、イエスを主と告白したことのなかった無割礼の人々(異邦人たち)が異言を話し、神を賛美しているのです。

 

 ペテロは言いました。

 「この人たちは、私たち(イエスの弟子のユダヤ人たち)と同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水(のバプテスマ)をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」(使徒10:47)

 

 神御自身が、コルネリオたちに聖霊のバプテスマを与えられたので、ペテロたちユダヤ人は、異邦人もまた、イエス・キリストを信じる信仰とイエス・キリストの御名によって贖われ、神の民に加えられることを知りました。

 

 肉の割礼のない民(無割礼の民)が、割礼のないままで、また、ユダヤ人の律法を知らなくても、神は、その人の信仰を御覧になって、イエス・キリストの御名によって授けられる信仰のしるしの「真理の御霊」を与えられることを知った出来事でした。

 

 そして、ペテロは、彼らに、イエス・キリストの御名によって(水の)バプテスマを受けるように彼らに命じました。

 水のバプテスマは、悔い改めのあかしであり、「私は罪を悔い改めて神に立ち返ります。」という信仰の誓いなのです。

 

 終わりの時代に私たちは、神を恐れかしこみ正義を行なう異教徒や無宗教の人々にも、聖霊が下られるのを見ることでしょう。

 

 神は、すべての人の神だからです。

 クリスチャンは、驚き怪しむことなく、神の憐れみを知り、慈しみ深く懐の大きい神をほめたたえましょう。

 

 私たち異邦人のクリスチャンもまた、神の憐れみによって、神の民に加えられているのですから。