「さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。大勢の人がイエスを囲んですわっていたが、『ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。』と言った。
すると、イエスは彼らに答えて言われた。『わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。』
そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神の御心を行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」(マルコ3:31-35)
神がイエスにお与えになる主権は、この世のものではありません。
神がイエスにお与えになる国は、とこしえの国です。
神がイエスにお与えになる光栄は、「ユダヤ人の王」でも「イスラエル王国の王」でもありません。とこしえに堅く立つ「とこしえのイスラエルの国の王」なのです。
イエスは、処女マリアから産まれました。イエスは、マリアの許嫁であるダビデ王の子孫のヨセフとマリアの子として育てられました。
ヨセフとマリアの間には、イエスの弟や妹が生まれています。イエスはナザレの町で育ったナザレ人であり、早くに亡くした大工の父ヨセフのせがれとして知られています。
亡きヨセフの妻マリアがイエスの母であり、イエスには兄弟姉妹がいることは、だれもが知っていました。
その母と兄弟たちが来て、外に立って、イエスを呼んでいるのです。
母と兄弟たちが尋ねて来ていることを聞いたイエスは、答えました。
「わたしの母とはだれのことですか。」
そして、自分の回りにすわってイエスの話を聞き入っている人たちを見回して、「ご覧なさい。(神の御心に心を留めるこれらの人々が)わたしの母、わたしの兄弟たちです。」と言われたのです。
イエスは、神がご自分に与えられる国を御覧になっていたのです。
その国は、神の御心を喜び、神の御心を行なう人々の集まる国です。
そして、言われました。
「神の御心を行なう人は(血縁関係がなくても)だれでも、わたし(神の御子イエス・キリスト)の兄弟、姉妹、また母なのです。」
イエスは、御霊によって完成する神の国(肉に死んで御霊にて生まれ、御霊によって新しく造り変えられた「新しい人」、すなわち、死から甦って永遠に生きる神の子どもたちの「とこしえのイスラエル王国、すなわち、七つの御霊の教会」)をご覧になっていました。
アブラハム、イサク、ヤコブの子孫ユダヤ十二部族の人々だけではありません。世界中からセム族の人も、ハム族の人も、ヤペテ族の人も集まって来るのです。
あらゆる国の国民であった人々、あらゆる民族から、あらゆる言語の人々が、神の御心を行なうためにやって来るのです。
もはや、ユダヤ人も異邦人もありません。もはや、男も女もありません。全ての時代からすべての世代の人々が、また全地から、神の御心を求めて集まって来るのです。
イエスが最初に奇蹟を世に現わしたのは、ガリラヤのカナであった婚礼においてでした。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれていました。母マリアもまた、その婚礼にいました。
婚礼の最中にぶどう酒がなくなったことに気づいたマリアは、イエスに向かって「(どうしましょう。)ぶどう酒がありません。」と言いました。
祝いの席にあってはならないことでした。
イエスは母に何と答えたでしょうか。
「あなた(イエスの母マリア)はわたし(神に権威を与えられているキリスト)と何の関係があるのでしょう。女の方(ご婦人よ。)わたしの時(キリストの栄光を現わすように神に許された時)はまだ来ていません。」(ヨハネ2:4)
キリストの望みを秘めたイエスに、マリアは神の御力が現わされることを期待したのでしょうか。
イエスを産んだのは、マリアです。しかし、処女マリアの胎に宿ったのは聖霊による神の御子イエスでした。
マリアは、御使いのことばを思い出していたのかも知れません。
「こわがることはない。マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエス(神は救い、神は救う)とつけなさい。
その子(イエス)はすぐれた者となり、いと高き方の子(神の御子)と呼ばれます。また、神である主は彼(イエス)にその父ダビデの王位をお与えになります。(御使いは、イエスがダビデ王の系図から生まれる方であることを証言しました。)
彼(神の御子イエス)はとこしえにヤコブの家(イスラエル、すなわち、神の御国の国民)を治め、その国(神の御心を行なう神の国民の国、すなわち、とこしえに堅く立つ神の御国)は終わることがありません。(神の御子イエス・キリストが治める国は、とこしえの国なのです。)」(ルカ1:30-33)
母マリアは、婚礼の手伝いの人たちに「あの方(イエス)が言われることを、何でもしてあげてください。」と言いました。
母マリアは、イエスを自分の息子としてではなく、キリストとして見ていました。
バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けたイエスに、聖霊が留まっておられました。
イエスは、「公生涯(イスラエルに遣わされた神の子羊イエス・キリストとしての生涯)」にはいっておられました。
イエスの名前のごとく、「神は救う方」であることを証しする生涯です。弟子たちもともにいました。
さて、いよいよぶどう酒がなくなると、困った手伝いの人たちはマリアに言われたとおり、イエスのことばを仰ぎました。
イエスに、きよめのしきたりのための石の水がめに縁までいっぱいに水を満たすように言われると、縁までいっぱいにしました。
イエスは言われた。
「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」(ヨハネ2:8)
彼らはイエスに言われたとおり、持って行きました。
宴会の世話役はそれを飲むと、その良い葡萄酒に驚きました。人々が酔って味がわからくなった頃に悪い葡萄酒を出すことはあっても、こんなに上等な葡萄酒を今の今まで取っておいたことをほめたのです。
水をくんだ手伝いの者たちは、それが石の水がめに満たした水であることを知っていました。イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナの婚礼で行ない、ご自分の栄光を現わされました。それで、弟子たちはイエスを信じました。
イエスの不思議なしるしを見た弟子たちは、バプテスマのヨハネの証言どおり、イエスは、天から聖霊が下って留まられた神の御子であり、神がイスラエルに遣わされた「神の子羊」であり、また、聖霊のバプテスマを授けるキリストであることを信じたのです。
イエスは、公生涯に入られて、神の御子としての務めを果たされました。
もはや、マリアの息子でもなく、ヨセフのせがれでもありません。天の父なる神のひとり子なのです。
イエスの意識は、父なる神とともにあり、天にあったのです。
マリアもわかっていたのでしょう。キリストの務めを果たすイエスを陰ながら支える人々のひとりでした。
十字架につけられたイエスは、愛する弟子のヨハネと、母マリヤに声を掛けられました。
「イエスは、母(マリア)と、そばに立っている愛する弟子(ヨハネ)とを見て、母に『女の方。(ご婦人よ。)そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。
それからその弟子に『そこに、あなたの母(ヨハネのお母さん)がいます。』と言われた。その時から、この弟子(ヨハネ)は彼女(マリア)を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:26,27)
聖書にはっきりと書かれています。
イエスは、十字架上で、マリアを弟子のヨハネの母としたのです。イエスが、十字架から降ろされた時には、マリアはすでに、ヨハネの母となっていたのです。
イエスは、ご自分が世から去った後に、マリアがイエスを産んだイエスの母ということで、神の人のように祭り上げられることを危ぶまれたのでしょう。
イエスの死後、地上にイエスの母は存在しないのです。
イエスは、父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているメルキゼデク(義の王、平和の王)のような方となられたのです。
イエスは、神は救う方であるという証を携えて世に来られ、父なる神(創造主)について、永遠のいのち(聖霊)について、天の御国(御霊の教会)について教えられました。
そして、罪の贖いの神の子羊の血を携えて、天のまことの聖所にはいられ、メルキゼデクのような「とこしえの大祭司(神と人との仲介者)」となられたのです。