永遠の昔から存在しておられる神がおられます。
天地万物が存在する前からおられる方です。
天地万物があるのは、いのちの根源であり、すべてのものの存在の理由であり存在の目的である方、永遠に存在しておられる神によるのです。
宇宙も世界も、神によって造られ保たれています。
人が信じても信じなくても、これが摂理なのです。
生老病死の苦しみに悩む人間は、生きる目的を探ります。死後のことが隠され人間の辿り着くことのできない深い闇に恐れを感じます。永遠の思いが与えられている人は、郷愁の念により、この世の現実が実は本当の現実ではないように思います。
人間は、人間が誕生してから何万年もの時を数えますが、神のことば(聖書)をゆだねられたユダヤ民族のユダヤ暦によれば、最初の人アダムから数えて六千年が満ちようとしている時を人類は迎えています。
アダムから六千年の間、私たちの魂は初めて生まれたのでしょうか。おそらく、何度も姿を変えて、人間体験を繰り返しているのではないでしょうか。
魂は、様々な体験を経て今があります。
神は、ひとりひとりの魂の歴史を御存じです。なぜならば、魂は神から出て、さまよっているからです。魂は肉体を持つと魂の父のことがわからなくなります。
人を造られた神は、魂の父です。
神のひとり子である御子(ナザレのイエス)は、父なる神のもとから来て、神のもとに帰ることを知っておられました。
神がイスラエル(神の民)に遣わされたキリスト【救世主】は、神のひとり子であり、神とともにある神のことばでした。
神のひとり子は、魂を救うキリストとして、帰るべき父「魂の父」を知らせ、魂の父のもとに導く助け主「真理の御霊」を知らせ、魂の父のおられる「天の御国」を知らせました。そして、天の御国にはいるために、魂の父と隔てている罪を取り除く「贖いの子羊の血」をお与えになりました。
罪を取り除く贖いの子羊イエス・キリストの血が流される以前から、魂は何度も生まれて来て、肉体のいのちの体験を積み上げているように思います。
神は、ひとりひとりの魂の歴史を御存じです。何度も繰り返された体験によって、それぞれの魂の傾向がはっきりして来たのではないでしょうか。
つぶやきながら生きる魂。いのちを持て余す魂。成功を求める魂。永遠を思う魂。目に見えない存在を意識する魂。神を恐れる魂。
神は、それぞれの魂の傾向を知り尽くしておられます。
そして、その魂の傾向によって、それぞれの魂に次の人生の課題を与えて、世に生んでおられるのかも知れません。
神はアブラハムの魂を良しとされて、契約を結ばれました。そして、神の選ばれたイサクの魂をアブラハムの跡取りとし、また、神が救いに定めたヤコブの魂を相続人とされました。
ヤコブの十二人のそれぞれの息子たちも、神に定められた魂が配置されたのでしょう。
神から受けたキリストの御霊によって真理を語るパウロに、真理が覆い隠されたユダヤ人たちは妬みに燃え、パウロの話に反対して、口汚くののしりました。
「そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。
『神のことば(真理)は、まずあなたがた(ユダヤ人たち)に語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。
なぜなら、主は私たち(神の御子イエス・キリストのしもべ)に、こう命じておられるからです。
「わたし(神)はあなた(神のしもべ)を立てて、異邦人の光(異邦人に罪の赦しと永遠のいのちを得させるキリストの福音「良き知らせ」を告げる、いのちの使者)とした。
(罪を取り除く神の子羊イエス・キリストの御霊に導かれる)あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。」』
異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった。
こうして、(創造主であり、救い主であり、裁き主である)主の(御救いの)みことばは、この地方全体に広まった。」(使徒13:46-49)
それぞれの魂の御救いは、神が決めているのではなく、魂自身が決めているようです。
御救いが約束された神の民、ユダヤ民族に生まれていても、神のみことばを拒む自分自身の生き方が、自分の魂を永遠のいのちにふさわしくないものと決めるのです。
異邦人であっても、永遠のいのちに定められた人がいるようです。おそらく、魂の歴史の中で永遠のいのちにふさわしい命の使い方をして来た魂なのでしょう。
こうしてみると、魂の父は、魂の値打ちを生まれる前から御存じのようです。そして、その値打ちを決めるのは、それぞれの魂のあり方なのです。
生まれつき永遠のいのちに定められている魂もあれば、今生の生き方で今までの魂のあり方を見直して向きを変え、悔い改めていのちの道にはいる魂もあるのでしょう。
魂は魂の父(父なる神)の存在を知り、魂の父のもとに帰ることを切に求めるならば、神は必ず、憐れんでくださいます。悔い改めの霊を注ぎ、神に愛されていることを魂に知らせ、信仰と御霊の喜びと平安とをお与え下さいます。そして、神の愛を知る魂は、決して魂の父から離れることはありません。
神の御国は、国籍も民族の相違も系図もありません。魂の父、父なる神がすべての魂の父なのです。父は神おひとりです。
ユダヤ教も、キリスト教も、神道も、仏教も、そのほかの宗教もありません。それらは、魂に目を与え耳を与え、魂の父に帰らせるための旗振りだったのです。
神の御国は、御霊があるだけです。地上でどの宗教に属していたかではなく、どの群れにいたとしても、真理の御霊を受けた魂が、魂の父のもとに帰ります。
かつて、イスラエルのベツレヘムの地で、神は私に「救い主が生まれたことではなく、御救いが完成したこと(罪の贖いの神の子羊イエスの血が流され、真理の御霊が遣わされていること)を喜びなさい。」と語られました。
クリスマスは、救世主である神のひとり子イエス・キリストの降誕日として知られています。そして、キリスト教会では、イエス・キリストの降誕を祝います。
イエスは、神が遣わされた神の御子イエス・キリストを信じ、キリストの御霊を受けて永遠のいのちを得る魂のことについて、魂が魂の父に帰ることや魂が救われることについて、天の様子を次のように語られました。
「あなたがたに言いますが、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15:7)
「あなたがたに言いますが、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)
魂が罪(魂の父から離れ、救いを求める自分自身の魂に正直ではなく、さまよっていたこと)を悔い改めて、「魂の父」に帰るたびに、そのひとりの魂のために、天では喜びがわき起こっているようですよ。
すでに、神と人との仲介者であるキリストを信じている魂は、その天にわき起こる喜び、天の祝福の経験を持っているのです。その日、私たちひとりひとりの魂は天に覚えられ、御使いたちに喜び祝われていたのです。
クリスマスの日に、魂の父に帰ったあの日の記憶を呼び覚まし、また、今までの信仰の歩みで体験した神の癒しと慰め、神の憐れみと愛を体験した時の喜びと平安を思い起こしてみましょう。
魂の父に感謝をささげ、天の御国に思いを向けましょう。そして、永遠のいのちを得る喜びと平安を、深く味わいましょう。
私たちの魂の感謝と喜びと賛美こそが、天に喜びがわき起こるクリスマスなのです。
御使いたちは喜び楽しみ、救い主キリストは満足され、魂の父は安息されるのです。