ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

天国へ行く人

 

 死後に、肉体から抜け出て霊となった人は、極楽か地獄のどちらかに行くという考えがあります。

 この思想は、仏教が伝来した成果だと思います。キリスト教が伝来する以前から、日本人の中にありました。キリスト教の影響によって、極楽は天国と一般的に呼ばれるようになりました。

 

 「おらは死んじまっただ」の歌詞で知られる、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰て来たヨッパライ」の歌詞で、「天国」が歌われて、一般的に天国として認知されるようになったのかも知れません。

 

 平安時代の源氏物語には、死期の迫った人のために坊さんたちが祈祷することが書かれています。死を魔物の仕業とみて、魔を払うためであり、また、死後に良い世界に行くことができるように、と祈願する祈祷です。

 

 正しい生き方をした人が極楽へ、魔物を引き寄せる暗い心の人は地獄の責めにあうと考えられていたようです。

 

 極楽と地獄の思想のある日本人にキリスト教が伝えられました。

 キリスト教には神が存在します。神ではなくて、人間の最上の姿の仏(完成された完全な人間の姿)を目指す仏教徒の日本人は、キリスト教の教えに縁を感じることはなかったことでしょう。

 

 日本で神と言ったら、神社の神であって、人間とは全く異なる存在なのです。神は人間を守る方であって、この神の存在によって人間の及ばないあらゆるものと調和を保ちながら、霊性を高めていきます。

 

 神仏習合の世界では、怨念を恐れて、人間の怨念を鎮め、その怨念に害されないために、そのみ霊を祀って権現(神)として崇め奉ることで、災いを避けたようです。

 

 日本人は、天国と地獄という場所のある事を知っているようで知りません。今ははっきりしないが、死んだらわかる、とくらいに思っているようです。

 

 聖書には、「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。」(へブル8:27)とあります。

 

 聖書には、創造主である神の存在と、創造主によって造られた人間の成り立ちと、罪の報酬としての死と、死後の裁きと、死が投げ込まれる永遠に燃え盛る火の池のことが書かれています。

 

 人間の想像や作り話ではなく、永遠に生きておられる神の摂理として書かれています。

 

 これは、水が上から下に流れるように、また、天から降った雪が天に戻ることがないように、ひとつの流れとして人間の歴史に敷かれた道理です。ひとつの流れは、世界中を飲み込みます。国、民族、言語の区別なく、すべてのものを飲み込みます。母の胎内に宿った時から定められている人間が歩む道です。

 

 すべての人間は死に向かって歩み、生命を使っています。

 人の生命には寿命があり、その生命の期間の満了の時を迎えるならば、みな、地上から去ります。肉体を抜け出て死の世界にはいるのです。生きる人は、死者となります。

 しかし、古の日本人が信じていたように、死者となって肉体を脱いでも魂は永遠に生き続けます。

 

 その魂の行き先を案じていたのです。

 疫病や災害に、大いなる得体の知れない力ある存在に恐れを抱き、目に見えないものに救いを求めます。

 

 そして、日常生活を普通に送っていた日々の連続に、小さな喜びがあり、楽しみがあり、夢があったことに気づき、普段見過ごして気づかなかった幸せを懐かしく思います。

 

 聖書には、火の池に悪魔と死が投げ込まれ、死のない世界がやって来ることも書かれています。

 

 人間を造られた創造主は、死を永遠に燃やし続けて滅ぼすために、火の池を造られた裁き主です。

 裁き主は、死とともに火の池に投げ込まれないようにと、人を死から救い出す救世主を地上に遣わされました。

 

 死は罪の報酬です。罪を持っているから、死がその魂をとらえるというのです。

 罪とは、いのちから離れていることです。いのちとは、人を造り、人にいのちの息を吹き込んで生きものとされた、「わたしはある」という名の全能の神、主です。

 

 主は、御自身で存在し、だれの助けもいりません。そして、今の世を火で焼くために保っておられる方です。

 

 「わたしはある」という、いのちの根源神とつながると、「わたしはある」神に繋がり、わたしはあるものの一部となるのです。

 「わたしはある」という、いのちの根源神に繋がっていないことが罪(的外れ)であり、「わたしはある」神に繋がっていない者は、いのちのない者、死に繋がる者です。

 

 とこしえに存在される「わたしはある」神は、死に定められた人を死から救い出すために、罪の生贄の子羊を地上に送られました。

 神は、神のひとり子に肉体を造り、人の子として、人間界に遣わされたのです。

 神は、神の祭司の国民ユダヤ民族に、神の子羊イエスを屠らせなさいました。神の祭司の民が流した神の子羊の血は、世の罪を取り除く、罪の贖いの血です。

 

 神は、死に定まった罪人のいのちを、血(神の子羊イエスのいのち)で贖われました。

 

 神が遣わされた、罪の贖いの子羊イエスは、天から遣わされた、神と人との仲介者です。神は、仲介者イエス・キリストによって、人と和解をされます。

 

 神の和解とは、罪を赦し、「わたしはある」神に繋がるいのちを与えるということです。

 神に忠実な子羊イエスは、十字架の死まで従い、死から甦り、贖いの子羊の血を携えて、天の聖所にはいられました。

 神の子羊イエスは、神から聖霊のバプテスマを授ける権威を受けられ、聖霊(永遠のいのち)と火のバプテスマ(御霊による新しい人の創造)を授けるキリストとなられました。

 

 裁き主である神は、罪人の罪を赦すだけではなく、「わたしはある」神と繋がる永遠のいのち【聖霊】を授けて永遠のいのちを得させ、神の子どもにふさわしい者に造り変え、「わたしはある」神の一部としてくださいます。

 

 「わたしはある」神に繋がる者は、とこしえに天の御国に存在する新しい人とされるのです。

 

 肉体のいのちは、肉の思いをもって、死に向かういのちを生きます。そして、肉体を脱ぐと、死者の国にはいります。

 

 肉体のいのちの人が、神との和解を成し遂げる神の子羊の血を受けて、罪が赦されると、罪の報酬の死から解放されます。

 罪の贖われた者が、永遠のいのちである真理の御霊を受けるならば、御霊のいのちで生きる者となり、とこしえに存在しておられる「わたしはある」神の一部となります。

 「わたしはある」神の一部もまた、とこしえにあるもの(永遠に生きる神の子ども)となるのです。

 

 天国へ行く人は、死んだ人ではなく、永遠のいのちを得た人です。

 永遠のいのちを得る人は、真理の御霊を授けられた人です。

 

 真理の御霊は、イエス・キリストの信仰とともにおられます。

 しかし、心の貧しい者(心高ぶる高慢な者ではなく、心の低い者)、悲しむ者(虐げられている者)、柔和な者(へりくだった者)、義に飢え渇いている者、憐れみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されている者も、神から遠く離れてはいません。

 

 パウロは言います。

 「もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者(神の民)とみなされないでしょうか。

 また、からだに割礼を受けていないで律法(神のみことば)を守る者が、律法の文字(聖書)と割礼(信仰の誓い)がありながら律法(神のみことば)にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。

 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。

 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼(真理の御霊)こそ割礼です。

 その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。〈ヨハネ5:44〉)」(ローマ2:26-29)

 

 終わりの時、真理の御霊は、悔い改めへりくだった心、平和を愛する柔和な心、神にお会いするために備えられたきよい心の魂に授けられるのです。

 

 今、日本人は目覚め、多くの人々が神社仏閣を巡り、自然と調和し神を意識していた大和民族の心を思い出して、魂の故郷に帰る備えをしています。

 真理の御霊を受ける者として、身魂をきよめ、整えられています。

 

 天国へ行く人は、永遠のいのちを持つ人です。

 神が、永遠のいのちを得させるために遣わされた「真理の御霊」を受ける人です。

 

 箱根の関所のある芦ノ湖が光を飲み込むと言われているブラックホールのように漆黒の闇に見えていて、先日、祈りによってそこにキリストの贖いの血(神との和解の血)を注ぎました。

 

 おそらく、多くの人が祈られたことでしょう。突然、白いいのちの水の川が流れる泉のようになっている芦ノ湖を幻で見ました。

 私は、西の方から流れて来る白い生ける水の川が芦ノ湖を越えて東に来てほしいと思っていました。芦ノ湖自体が、いのちの水が湧く泉となることまで考えていませんでした。人々の祈りによって山は動くのですね。

 御霊の人の祈りは、いのちの水の泉をつくっていくのだと思いました。

 

 また、日本の地上に青白く光る光りが覆っているのを見ました。おそらく、呪縛のようなものが祈りによって解かれ、日本列島に縛られていた魂は慰められ癒しを受けて、自由となったのでしょう。やっと、死者たちの霊の世界に帰ることができます。

 

 それらの魂は、キリストの血で贖いの祈りをし、罪の呪いから解いて自由としてくださった御霊の器の祈りに感謝しておられることでしょう。

 

 今、解放の時がやって来ているのでしょう。

 御霊の人の祈りは、その後押しをします。

 生きている人々の中にも、神との和解、自己との和解、他者との和解によって、呪縛から解放されて自由となる魂が起こされていくのでしょう。

 

 神は、日本人の心に働き、真理の御霊を与えるために、真理の御霊を得る者として備えさせておられるようです。