「いのち(永遠のいのち)に至る叱責(神の戒め)を聞く耳のある者は、知恵のある者の間(神の御霊のあるところ)に宿る(身を置く)。
訓戒(神のことば)を無視する者は自分のいのちをないがしろにする(天の御国に招かれているのに、自分の前に置かれた永遠のいのちの道の訓戒を軽んじ、永遠のいのちを手放す)。
叱責を聞き入れる者は思慮を得る(いのちの道を歩む)。」(箴言15:31,32)
神は、ユダヤ人たちに仰せられました。
「わたし(天地万物の創造主)の掟を彼ら(ユダヤ人たち)に与え、それを実行すれば生きることのできるそのわたしの定めを彼らに教えた。(人には罪があること。神はユダヤ民族を選び神の祭司の国民とされること。世の罪を取り除くキリスト〈罪の贖いの神の子羊〉をユダヤ民族に与えること。神の民ユダヤ人は神が遣わされるキリストを信じ、彼のことばに聞き従わなければならないこと。神は、ほかの民族には知らされないことを、聖別した御自分の民イスラエルに語られました。後には、新しい戒めである、キリストが授ける聖霊のバプテスマを受けて、天の御国にはいる新しい人に造り変えられなければならないことを命じられました。神が遣わされるキリスト〈神の御子ナザレのイエス〉のことばに聞き従うことと、キリストが授ける真理の御霊を受けていのちの道を歩むことは、神が人に永遠のいのちを得させるために定められた、生きるための道でした。それは、人が死と滅びから解放されて、永遠に神とともにいるための安息の戒めでした。)
わたしはまた、彼ら(ユダヤ人たち)にわたしの安息日を与えてわたしと彼ら(神とイスラエル)との間のしるしとし、わたしが彼らを聖別(ほかの民族と区別)する主であることを彼ら(イスラエル)が知るようにした。
それなのに、イスラエルの家は(神の大いなる御力によって、奴隷の家エジプトから連れ出された)荒野でわたしに逆らい、わたしの掟に従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めもないがしろにし(イスラエルに毒蛇に噛まれて多くの死者が出た時、神は「旗ざおにかけた青銅の蛇を仰ぎ見る者は生きる。」と仰せられたのに、救いを求めて仰ぎ見る信仰のあるユダヤ人はわずかでした。神は、さばきとともに脱出の道も用意されたのに、神のみことばを信じ信仰を持って、木にかけられたものを仰ぎ見る者はわずかでした。)、わたしの安息日をひどく汚した。(民の心は神から離れ、ほかの助けを求めて神御自身の中で安息しようとはしなかった。)
だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、(不信仰で不従順な)彼らを断ち滅ぼそうと考えた。
しかし、わたしはわたし(全能の神)の名のために、彼らを(大国エジプトから)連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった。(エジプトから救い出したものの、神の手が短いからイスラエルをカナンの地に導き入れることができなかったと、諸国民にイスラエルの神を侮らせないために、聖なる神の名を汚そうとはしなかった。神は御自身の御名のために、御自身の栄誉のために、イスラエルを滅ぼさなかった。)
だが、わたしは、わたしが与えた、乳と蜜の流れる地(約束のカナンの地)、どの地よりも麗しい地(ユダヤ民族の先祖〈アブラハム、イサク、ヤコブ〉が眠る先祖の相続地)に彼ら(荒野で逆らうユダヤ人たち)を導き入れないと荒野で彼らに誓った。(神の誓いどおりに、エジプトの地から出て来た六十万人と言われる成人男子は、神に聞き従うヨシュアとカレブのふたりを除いてみな荒野で息絶えた。イスラエルを奴隷の家エジプトから連れ上ったアロンとモーセもまた、荒野で息絶えた。)
それは、彼らがわたし(神)の定めをないがしろにし、わたしの掟を踏み行なわず、わたしの安息日を汚したからだ。それほど彼らの心は偶像を慕っていた。
それでも、わたしは彼ら(イスラエル)を惜しんで、滅ぼさず、わたしは荒野で彼らを絶やさなかった。(絶滅しなかった。)
わたしは彼らの子どもたちに荒野で言った。『あなたがたの父たちの掟に従って歩むな。彼らのならわしを守るな。彼らの偶像で身を汚すな。
わたしがあなたがたの神、主である。わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行なえ。また、わたしの安息日をきよく保て。(あなたがたの父たちは安息日をひどく汚したので、荒野で息絶えた。)これ(神の民のしるしとして与えた安息日を守ることで、ユダヤ民族を神の祭司の民として聖別すること)をわたしとあなたがた(神の民として聖別されたイスラエル)との間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ。(あなたがたは父たちの道を歩んではならない。主に従って歩め。)』と。
それなのに、その子どもたちはわたしに逆らい、わたしの掟に従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めを守り行なわず、わたしの安息日を汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。(父たちが言い逆らった罪の結末を見ていながら、彼らの子どもたちもまた、偶像を慕い、主を恐れず、主とひとつ心ではない状態で神の安息日を汚した。だから、彼らをもまた、父たちと同じように怒りをもって罰しようと思った。)
しかし、わたしは手を引いて、わたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった。(彼ら〈ユダヤ人たち〉は、その口で神を欺き、その舌で神に偽りを言った。彼らの心は神に誠実でなく、神の契約にも忠実でなかった。しかし、憐れみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押さえ、憤りのすべてをかき立てられはしなかった。神は、彼らが肉にすぎず、吹き去れば、返って来ない風〈むなしいもの〉であることを心に留めてくださった。幾たび彼らは、荒野で神に逆らい、荒れ地で神を悲しませたことか。彼らはくり返して、神を試み、イスラエルの聖なる方を痛めた。彼らは神の力をも、神が敵から贖い出してくださった日をも、覚えていなかった。〈詩篇78:36-42〉)
だが、わたしは、彼ら(神の定めを守り行なわないユダヤ人たち)を諸国の民の中に散らし、国々へ追い散らすと荒野で彼らに誓った。
彼らがわたしの定めを行なわず、わたしの掟をないがしろにし、わたしの安息日を汚し、彼らの心が父たちの偶像を慕ったからだ。
わたしもまた、良くない掟、それによっては生きられない定め(永遠のいのちを決して得ることのできない定め)を、彼らに与えた。」(エゼキエル20:11ー25)
神がユダヤ人たちにお与えになった良くない掟、それによっては生きられない定め(生ける神を知ろうとしないユダヤ人たちの心を頑なにして、肉の割礼と文字の律法の奴隷として、いのちから遠ざけた)によって、ユダヤ人たちは、キリストを悟ることができませんでした。
ユダヤ人たちを諸国の民の中に散らし、国々へ追い散らされたのは神でした。神は、彼らに誓ったことばどおりのことを、彼らの上に成就されたのです。
神はユダヤ人たちの背きの罪によって、生きることのできる神の定め(神の子羊イエス・キリストによる罪の贖いと真理の御霊による永遠のいのち)を、異邦人に及ばせられました。
神の御救いは万民の前に備えられ、異邦人を照らす啓示の光となりました。
異邦人たちは、キリストの福音を聞き、いのちに至るみことばを信じて、永遠のいのちの望みと信仰を得、喜びと平安を得、神の愛に安息しました。
神の契約のなかった異邦人が、割礼の民ユダヤ人たちよりも先に、神の安息にはいったのです。神を恐れ、神にへりくだって神のことばに聞き従うキリスト者たちは、真理の御霊を受けて、御霊の与える喜びと平安を体験し、神をたたえる者となり、神に愛されていることを知る神の民となったのです。
そして、イスラエルが「私たちの神」と呼ぶ神、すなわち、イエスの父であるイスラエルの神を、「アバ、父。」と呼ぶ御霊によって、「天のお父様」「私たちの父」と呼ぶ神の子どもとされるのです。
キリストの福音は、罪を取り除き永遠のいのちを得させる「希望の光」であり、「真理の光」であり、神が与えてくださる、愛と憐れみに満ちた生ける神のいのちの信仰です。
「目の光(霊の目を開く真理の光)は(真理を求める人の)心を喜ばせ、良い知らせ(創造主であり、裁き主である神が遣わされたキリスト【救世主】を告げ知らせる福音)は人(弱っている人、悲しむ人、嘆いている人、虐げられている人を癒し、慰め、励まし、病んでいる人を)を健やかにする。
いのちに至る叱責(忠告、警告、懲らしめ)を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。」(箴言15:30、31)
終わりの時代、永遠のいのち(死から甦って生きるいのち)を得させる真理の御霊は、宗教の壁を越えて、神のみことばを受け入れる心のきよいへりくだった人々のところに訪れるでしょう。
そして、自分たちは正しい道を歩んでいると、頑なに真理の御霊の叱責を聞く耳をふさぐ者たちを、神は御覧になります。
「正しい道を捨てる者には厳しい懲らしめがあり、叱責を憎む者は死に至る。」(箴言15:10)
神の懲らしめを受けて歩みを正す者、悔い改める者は思慮を得ます。
そして、悪い習慣から遠ざかります。
神は、永遠のいのちにふさわしいものとするために、いのちに至る叱責を聞く耳のある者に、真理の御霊を注がれることでしょう。