最後の晩餐の席で、イエスからパンきれを受け取ったイスカリオテのユダに、サタンがはいりました。十二使徒のひとりであったイスカリオテのユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行きました。祭司たちにイエスを渡す手はずを整えるためです。すでに夜でした。
「ユダが出て行ったとき、イエスは(使徒たちに)言われた。
『今こそ(神がキリストとして遣わされた)人の子(ナザレのイエス)は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。
神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、御自身によって人の子(ナザレのイエス)に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。
子どもたちよ。わたし(神の御子イエス)はいましばらくの間、あなたがた(使徒たち)といっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、「わたし(ナザレのイエス)が行く所へは、あなたがた(ユダヤ人たち)は来ることができない。」とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがた(使徒たち)にも言うのです。』」(ヨハネ13:31-33)
イエスは、これから、ご自分は十字架につけられて、罪の贖いの血を流すことを使徒たちに言われました。(神が遣わされた人の子〈キリスト〉は、世の罪を取り除くために、贖いの血を流さなければなりません。人の子は、世の罪を贖う神の子羊として、神に遣わされていたのです。)
神に遣わされた人の子(キリスト)ナザレのイエスは、肉に死んで、死の世界にはいり、死と罪に追いやる悪魔に勝利して、御霊の与える新しいからだによって死から甦ることを言われたのですが、死後の世界のことも、霊のこともわからない使徒たちには、なぞなぞのようでした。
イエスを裏切る使徒としての役目を持つイスカリオテのユダにサタンがはいって、使徒たちの中から出て行きました。
このことは、イエスの十字架の死を意味していました。後戻りはできません。とうとう、イエスの前に、十字架への道が開かれたのです。
十字架の呪いを受けることは、神のひとり子の栄光でした。罪人を救うことは、神のひとり子にしかできないのです。万人の御使いたちによってもかないません。
アダムが、善と悪を知る知識の木の実を食べて悪魔に捕らえられて、神のことばから引き離された時から、神の御計画にあったことです。
神の御子は父の心とひとつとなって、神の御計画(死と死後の裁きが定まった罪人の救い)のために、神のひとり子の栄光を捨てて、肉体を持つ人の子(ナザレのイエス)となって処女から生まれる赤子となられたのです。
イエスは、神の御計画を成就するために来られました。聖書に書かれているメシアの預言を成就するために来られたのです。
イエスは、神の定められた道(贖いの子羊の道)が開かれたことを知りました。
それゆえ、人の子は栄光を受けたと言われたのです。神は、ナザレのイエスの生涯を御覧になって、世の罪を取り除く神の子羊としてふさわしい者、罪のない聖なる者であることを証しされたのです。
また、神は、神に忠実な人の子(ナザレのイエス)によって栄光をお受けになりました。肉なる者だから罪を犯すのではないことをナザレのイエスは証ししました。肉なる者でも、神のことばに繋がり、神のことばに聞き従う歩みを全うするならば、創造主の汚れのない被造物としての栄光を現わすことができるのです。
神は、人の子(ナザレのイエス)によって栄光をお受けになります。すると、神も、御自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。弟子たちはイエスのからだを墓の中で捜しますが見つかりません。イエスは永遠に生きる新しいからだで甦り、墓の中から復活されるからです。
被造物は意思を持って神から離れたのではありません。
「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由(罪の赦しと開放)の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。(永遠を知る被造物は朽ち果てる現実が本当の姿ではないことを知っています。)
そればかりでなく、御霊の初穂(最初に、御霊によって死から新しいからだで甦った神の子羊イエス・キリスト、すなわち、聖霊のバプテスマを授ける権威を神から受けたキリスト)をいただいている私たち(イエスのしもべたち)自身も、心の中で(罪の刑罰と死の呪いに)うめきながら、子(神の子ども)としていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われること(死から甦って、キリストと同様に御霊によって新しいからだを得ること)を待ち望んでいます。
(イエス・キリストを神の御子キリスト【救世主】と信じる)私たちは、この望み(真理の御霊が教える望み、それは、キリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、キリストとともに、天の御国の相続人となる、という信頼すべき神の約束)によって救われているのです。」(ローマ8:20-24)
この望みによって、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるのは、良いことであって、人々に有益なことです。
神は、神のひとり子である人の子(神の子羊ナザレのイエス)によって人々の罪を贖い、義としてくださいます。
神は、御自身が遣わされた神のひとり子イエス・キリストによって、一度死ぬことと死後に裁きが定められている人々を、義とし裁きを免れさせてくださいます。
神は、死から甦ったイエスに聖霊のバプテスマを授ける権威(キリストの権威)を与えて、神の子羊イエス・キリストを「主(救い主、永遠のいのちを得させられる主)」と告白するイエスのしもべら(信者)に、もうひとりの助け主(聖霊、すなわち、真理の御霊)を授けられます。
十字架の死と復活について、なぞなぞのように語ったイエスは、困惑している使徒たちに言われました。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)
「またわたしは、あなたがたがわたしの名(イエス・キリストの御名)によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子(神の御子イエス)によって栄光をお受けになるためです。(キリストに結びつく者はみな神の子どもとされるのです。父なる神は、神の子羊イエス・キリストと、父が遣わされるもうひとりの助け主(聖霊)によって、新しい神の子どもを創造され、キリストを長子とされるのです。)あなたがたが、わたしの名によって何かを求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:13,14)
聖霊のバプテスマを授ける権威を神から受けたキリストは、神に義とされた人々に、真理の御霊を遣わされます。
イエスは言われます。
「助け主、すなわち、父がわたしの名(イエス・キリストの御名)によってお遣わしになる聖霊(真理の御霊)は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたし(イエス・キリスト)があなたがたに話したすべてのこと(イエスのことば)を思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)
真理の御霊は真理を教え、正しい神の道、いのちの道へと導き、神の国の初穂(新しく創造される第二のアダム、すなわち、神の子どもの長子)のイエス・キリストが死から甦られたように、肉の性質から御霊の性質へと新しく造り変えた人々に、永遠のいのちと新しい霊のからだを得させられます。
御霊は、神の子どもらを懲らしめ、肉の思いを打ち砕き、御霊の思いをかたち造っていかれます。
神に愛された者はだれでも、自分の意志にはよらず火のバプテスマを受けて、肉の古い人を焼かれる経験をします。
神は、ノアの時代に不信仰で暴虐に満ちた世を水で滅ぼされました。そして、次には、火で滅ぼすと誓われました。
神は、今の世を、火で焼かれるために保っておられる、と聖書にあります。
みな、火で焼かれるのです。
罪赦されて、きよめの火(肉の古い人を火の試練にくぐらせてきよめる火のバプテスマ)を通った新しい創造の人々は、永遠のいのちを得て、キリストとともに天の御国を相続します。
救い主である神の子羊イエス・キリストを信じない不信仰な人々、信じても不従順な人々は、世を焼く火で焼かれます。すなわち、アダムから始まって、ハルマゲドンの戦いで終焉を迎えるに至るまでの、世のすべての世代の人々は、死後に裁きを受けて、永遠に燃える火の池で焼かれるのです。彼らは肉の死(第一の死)の後に、霊の死(第二の死)に定められ、永遠の死にはいるのです。
肉体のいのちの間に、神の子羊イエス・キリストの授ける御霊のバプテスマを受けて、御霊の導かれる火のバプテスマ(肉の性質が焼かれる試練と懲らしめときよめ)を受けることは、御救いのための恵みの道です。
火のバプテスマの経験は、永遠の火で焼かれないための父なる神の憐れみです。永遠の火で焼かれる罪を残さないための神の愛です。火のバプテスマに耐える人は、いのちの道を歩んでいるのです。
パウロは言います。
「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光(神の御国の安息)に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。」(ローマ8:18,19)
真理の御霊は、神の子どもにふさわしい者とするために、御霊の性質に造り変え、キリストに似た者に造り変えていかれます。
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいます。
御霊に聞き従う神の子どもたちが現われるならば、土地も空間も環境も贖われ、生ける水の川がその人から流れ出るからです。
キリストが再臨されて治められる千年王国には、死海に多くの魚が生きることが預言されています。
生ける水の川がはいるからです。
「この川が流れていく所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」(エゼキエル47:9)
イエスは言われました。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたし(神の御子イエス・キリスト)を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)
あらゆるものを生かす生ける水の川の泉は、御霊です。イエスは、ご自分を「生かす御霊【聖霊】を与えるキリストである。」と、言われたのです。
イエス・キリストを信じる者、イエスのことばに従って御霊を受ける者は、その人の心の奥底に生ける水の川の泉が湧き、その生ける水(いのちの水、すなわち、御霊)は川となってその人から溢れ流れて行くと言われたのです。
それゆえ、人の罪ゆえに虚無に服した被造物も、束縛から解放された神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられることを願って、神の子どもたち(聖霊の器)たちの現われを、切実な思いで待ち望んでいるのです。