ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

悔い改めは神の愛が注がれている証

 

 人の心は傷ついています。

 それゆえ、固い殻を覆っています。人は意識していませんが、自分の心の奥底にある自分自身に嘘のない正直な本性に目を向けないで生きています。

 

 本性に正直に生きたいと願うのは、魂です。すなわち、人は自分の魂と分離した生き方をしているのです。

 自分自身の魂の願いと、世の中で懸命に生きている自分の生命が一致していません。潜在意識の存在に気付かず、あるいは、押しやって、目に見える様々な事柄に翻弄されながら、世の荒波を生きているのです。

 

 自分自身の魂(知情意)に無関心をよそっているのです。自分の魂に目を向けてもお金にならないからです。食べていくためには、多少の犠牲は必要でしょう。

 

 家族に愛がないと責められてもしかたがありません。人は、自分自身の魂を無視するほど、愛が冷たくなっているからです。

 自分に愛されていない魂は、殻によって守ります。傷つきたくないのです。もうこれ以上、傷つきたくないのです。

 

 自分自身の本心を偽る心、人が自分よりも優れて見えて羨んだり、卑下したり、落ち込んだりして、その度に、自分自身を裏切ります。自分自身に罵倒を浴びせかけ、ののしります。

 

 自分自身を傷つけているのは、他人でもなく、境遇でもなく、状況でもありません。自分自身なのです。自分自身に愛されていない魂はうめいています。悲しんでいます。嘆いています。

 自分自身の意識があきらめても、魂はあきらめていないのです。きっと良くなる。きっと苦しみから解放されて、光を見ることができると望みを持っています。

 

 他人から傷つけられた時、どうしょうもない状況でにっちもさっちもいかなくなった時、「大丈夫。私はあなたといっしょにいるよ。いっしょに乗り越えよう。私はあなたを応援するよ。」と励ましてくれている力強い味方は、実は自分自身の中にあるのです。自分自身の魂は、いつでもあなたを信じ、ともに生きることを決めているのです。

 

 目に見える肉体のいのちばかりを見ている人は、中にいる魂に鈍感になってしまっています。

 しかし、ひとりぼっちの状況で孤独になった時に、自分のうちの魂の存在に気づく人がいます。自分自身がつらいと思っていたはずなのに、もうひとりの自分がいて、同じようにつらいと悩んでくれているのです。

 その時、人はやっと自分自身の内側に思いを向けるのです。魂との対話が始まります。

 

 固い殻に覆われていると、なかなかその存在(正直な魂)にたどり着けません。何が自分の本心であるかもわからなくなっているのです。

 

 自分が傷つくたびに、魂に覆いを掛けて守って来たのです。これ以上傷つかないように。これ以上惨めにならないように。

 本心を偽る事が生きる術となっていたのです。

 

 自分の本心がわからない人に、神はわかりません。神が与えてくださったいのちの息に偽った生き方をしているからです。自分のいのちに素直でないと、偽りが本心に思えてきます。自分自身の思いと、そうでない思いとの区別がつきません。人の魂は捻じ曲げられて、自分自身の本心が認識できなくなります。それは、魂の警告です。

 

 魂は、自分自身の正直な思いを知って、素直に生きてほしいと願っています。それが、あるべき姿、健やかな姿だからです。

 

 自分自身の魂に無理をさせて来たこと、魂の思いを偽って純真な魂に背を向けていたこと、自分自身に素直でなかったこと、自分の魂に嘘をつき裏切って悲しませていたことに気づくならば、和解の時です。

 

 父の家から出て放蕩した息子は、父から得た財産を湯水のように使い果たし、食べるにも困り始めました。

 豚の世話をする仕事を得た彼は、豚の食べる餌のいなご豆で腹を満たしたいほどに空腹でした。

 

 イエスのたとえ話の放蕩息子は何もかも使い果たした後で、その国に大飢饉が起こりました。息子にすれば、泣きっ面に蜂です。悪い事は続くものだ。脱出の道は見出せません。闇に覆われたようです。

 しかし、この放蕩息子にとって災いと思われる状況に、放蕩息子の行方を心配して息子の帰りを待ち望む父の祈りがあったのです。父にとって息子の使い果たした財産よりも、息子が心配なのです。どうか、生きて帰って来ますように。

 

 放蕩息子は、我に返りました。

 「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか。

 さあ、父のところに行って、言おう。『お父さん。私は天(神)に対して不遜で、あなたに反抗し罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりとしてください。』」(ルカ15:17-19)

 

 放蕩息子は、我に返ったとき、自分の安心で安全な場所を知りました。それは、自由がないと思って飛び出した父の家でした。

 放蕩息子は、父の愛を悟らず、みずから愛を捨てたのです。愛から離れると、次々と苦難に巻き込まれました。そして、ついには、食べるのにも困り始めたのです。

 食べることは、生きる基本です。猫や鳥や虫たちも日々餌をさがして食べながら生き続けています。しかし、人間は、食べて自分を生かすことが人生の目的ではないはずです。

 人が造られた目的は、すべての被造物を管理するためでした。自分自身が食べることだけのためではなく、周囲のもの(自分の家族や家畜や動物など、他の生き物や植物)が安心して生きていけるように、心配りながら管理する役目もあるのです。

 

 放蕩息子を優しく支えていのちを守る愛は、我に返った自分自身のうちにありました。自分を生かすために、背いた父のもとに帰って謝罪する「悔い改めの心」、そして、雇い人のひとりとして父に仕える者となろうとする「へりくだった心」が放蕩息子を新しく生きる者に変えました。

 

 父は遠くに放蕩息子を見つけると、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、何度も何度も口づけしました。そして、雇い人ではなく、死んでいたのが生き返ったと喜び、放蕩息子を息子として、祝宴をもって迎え入れました。

 父から離れていた放蕩息子は、父の愛を一身に受けました。自分の罪を知り、罪を悔い改めた息子は、父の愛を知る者となったのです。

 

 放蕩息子の兄は、自分の思いのまま生きて好き勝手に家を出て、何もかもなくなったからと言って戻って来た弟に腹を立てます。

 父の家から出たことのない兄は、世間の風の冷たさを体験したことがなく、また、弟の罪を赦せない彼は、悔い改めて赦される解放と喜び、赦しの伴う愛を体験したことがありません。放蕩息子が家にいた時と同じように、兄もまた、父の愛を理解することがありません。

 

 放蕩息子は、自分の罪を体験し、悔い改めと赦しを体験し、愛を知る者となり、心から喜んで父に仕える者となりました。

 兄は、罪を犯す者を許さない正義を掲げ、自分を正しいとする者で、心に感謝も喜びもなく、つぶやきながら父のもとで働きます。

 

 罪を犯さないのは恵みです。しかし、主の恵みは、罪の中にもありました。罪を犯しても、我に返ると、自分の魂が発動します。自分の罪を気づかせてくれるのです。

 

 神は、いのちを得させるために、罪をも益とされます。

 罪とともに、悔い改めの霊を同行させられるのです。

 

 心に平安がないことは、神とひとつではない証です。自分の魂に語りかけてみましょう。そして、正直な魂の願いに素直に従ってみましょう。

 

 我に返った時、悔い改める者は、神の道に行きます。そして、神の赦しと愛に出会うのです。

 我に返った時、それでも、魂に逆らって悔い改めを拒む者は、神の愛に出会うことはありません。神以外に助けを求めるのです。

 

 悔い改めることは敗北ではなく、自分の魂と和解することです。

 自分の魂に素直な者は、救い主を知り、主を心に迎える者となり、神の御子イエス・キリストによって、神と和解するのです。

 

 イエスは言われます。 

 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:32)

 

 罪を犯すことは呪いではなく、罪人であることを認めさせるためなのかも知れません。自分の罪を知る者は、招いてくださる主のもとで罪を悔い改める者となるのです。

 アダムやエバのように、罪を犯して隠れる者ではありません。罪を赦してくださる神の御子に、自分の罪を言い表わして、悔い改める者です。

 

 その人は恵まれた罪人です。自分には罪がないと言って、心頑なにする偽善者ではなく、自分を後押ししてくれる魂に素直な、正直な人です。

 神は、そのような人々に、悔い改めの霊を注いでくださいます。

 そして、神は、悔い改める者のさばきを思い直されるのです。

 

 愛の神は、悔い改める者に、赦しを宣言しておられます。

 赦しを得た者の中には、神に立ち返り、永遠のいのちを得る者がいるのです。

 

 「罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました。」(ローマ5:20)

 罪を知り、悔い改める人の前には、神の愛と恵みとがあります。

 

 悔い改めのない罪は、罪のまま残ります。

 しかし、悔い改めた罪は、神の赦しと恵みとを体験し、神の愛の中に帰ります。

 

 「わたしの魂よ。主をほめたたえよ。

 私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。

 いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。」(詩篇146:1,2)