ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

キリスト教会の御霊の器の祈りは神の家を建てる

 

 「わたし(神の子羊イエス・キリスト)はこの岩(ペテロ)の上にわたしの教会(七つの御霊の教会)を建てます。」(マタイ16:18)

 

 十字架で罪の贖いの血を流して死に勝利し、墓から甦って昇天された子羊イエス。神から主権と光栄と国が与えられて、神の御座の右に着座された神の御子イエスは、七つの星を右手に持ち、七つの金の燭台の真中におられるキリスト(神から聖霊のバプテスマを授ける権威を与えられた救世主)です。

 

 キリストの右の手にある七つの星は七つの御霊の教会の御使いたちであり、七つの燭台は七つの御霊の教会です。

 

 イエスは使徒たちに尋ねました。

 「あなたがたは、わたし(ナザレのイエス)をだれだと言いますか。」(マタイ16:15)

 

 使徒たちは、イエスを「先生。」とか「主。」という呼び方で呼んでいました。

 シモン・ペテロが答えて言いました。(「シモン」はペテロの本名で、「ペテロ(岩)」はイエスがシモンにつけた名前です)

 「あなた(ナザレのイエス)は、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)

 

 「するとイエスは、彼(ペテロ)に答えて言われた。

 『バルヨナ・シモン(ヨナの子シモン)。あなたは幸いです。このこと(イエスが生ける神の御子キリストであること)をあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父(イスラエルの神)です。

 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩(イスラエルの神がシモン・ペテロに明らかにされた真理、すなわち、ナザレのイエスは神のひとり子であり世の罪を取り除く神の子羊キリストであるという真理)の上にわたしの教会を建てます。

 ハデス(死者の国)の門もそれ(救い主イエス・キリストの建てる教会)には打ち勝てません。」(マタイ16:17、18)

 

 イエスは、神の御子キリストの真理(ナザレのイエスは神に遣わされたキリストです。そして、十字架の死に至るまで従順に父に聞き従い通した神の御子イエスは、聖霊のバプテスマを授けるキリストであり、罪人の御救いは聖霊によって完成されるという天の神〈創造主であり裁き主である神〉の定め)によって、キリストのとこしえの教会(七つの御霊の教会、すなわち、神の家)は建てられます。

 

 パウロは言います。

 「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

 (神に)与えられた恵みによって、私(パウロ)は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。

 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とは(神のひとり子であり世の罪を取り除く神の子羊)イエス・キリストです。」(コリント第一3:9-11)

 

 神と契約を持つユダヤ人から出て、割礼と律法を完全に守った人の子イエスは、ユダヤ民族にゆだねられた聖書の預言を成就させました。

 木にかけられて世の罪を取り除いたイエスは、死から甦り、永遠のいのちを得させるキリストとなられました。

 キリストの主権はとこしえであり、天の御国の門の鍵と死者の国の門の鍵を持つ方です。キリストは、「イエスは救い主キリストである。」と告白する人々に聖霊を授け、生かす御霊によって永遠のいのちを得させられます。

 そして、永遠のいのちを得させる救い主イエス・キリストの御名と、罪の贖いの血(神の子羊の血)とキリストの御霊(聖霊、すなわち真理の御霊)によって、永遠に生きる新しい人(キリストをかしらとするキリストのからだ)を造られます。

 

 御霊によって造り変えられた新しい人は、栄光の主キリストが主権を持つ七つの御霊の教会であり、キリストのからだ、神の家です。

 

 神の家には、他国人も寄留者もいません。礎のイエス・キリストにあって、御救いが約束された神の民ユダヤ民族と同じ国民であり、神の家族です。

 神の家は、使徒(イエス・キリストの証言者)と預言者(聖書の預言の成就)という土台の上に建てられており、キリスト・イエスがその礎石です。

 

 イエス・キリストという礎石の上に建っていない建物は神の家ではありません。

 神が用意された礎石(神のひとり子イエス・キリスト)の上に建っていない家は、砂の上に建てられた家のようです。荒れ狂う悪魔の仕業により、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいます。

 

 イエス・キリストの礎石の上に家を建てた者(「神の子羊イエスは神のひとり子救い主キリストです。」と告白する信仰によってイエス・キリストにつく者)は、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れません。

 キリストの七つの御霊の教会は、とこしえの巌(神のひとり子イエス・キリスト)の上に立てられているからです。

 

 「イエスは、私の救い主、主です。」という信仰を持つ人々は、水のバプテスマによって、キリスト教会の一員となります。(彼らは、悔い改めて信仰告白する人々です。彼らの信仰は、水のバプテスマによって神と人との前で表明されました。)

 

 イエス・キリストを告白する人は賜物として、御霊を受けます。

 キリスト教会の中に、聖霊のバプテスマを受けている人はいます。キリストによって建てられた聖なる宮(罪が贖われた人のからだ)は、御霊によって神の御住まい【聖霊の宮】となります。

 

 キリストが主権を持たれる七つの御霊の教会が、彼ら(聖霊の器)のとこしえの家となります。それは、生かす御霊によって肉が破られ、御霊の性質に造り変えられた新しい人たちの神の家です。

 

 聖霊のバプテスマを受けると、御霊は新しい人に造り変えるために、試みの荒野に導かれます。

 律法を完全に守り、神に従順に聞き従うイエスは、40日の断食の後で試みにあわれました。神の御手にへりくだり屠り場に引かれて行く子羊のように従順なイエスの試みの期間はわずかでした。試みに勝利すると、悪魔はイエスを離れて行き、御使いたちがイエスに近づいて来て仕えました。

 そして、神の時が来て、イエスは宣教を開始して、言われました。

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 

 試みに勝利したイエスは、神の使命に立たれたのです。

 

 使命に立つ者をそれにふさわしい者とするために、神は、「御霊の器」を火のバプテスマできよめられます。イエスは、罪をおかされない完全な人でしたので、すぐに、使命に立たれました。

 

 しかし、私たち人間は、聖霊の器とされるためには、火のバプテスマできよめられなければなりません。

 素直で従順な人は、少ない期間で整えられるのでしょう。

 

 私の場合は、30年以上かかりました。

 キリスト教会と縁遠い生活をしていた私は、クリスチャンになることに時間がかかりました。水のバプテスマを受けて1週間後に聖霊のバプテスマを受けたのですが、強情な私は、神の御手にへりくだることなく、自分の力で戦いました。ヤコブが私の慰めであり、心の拠り所でした。

 

 神が肉を破り、私の固い心を打ち砕いてへりくだる者にしようとして働いておられることに気づかない私は、困難な状況を乗り越えたら、「よく頑張った。」と神にほめられると勘違いしていました。

 苦難が来ても立ち向かいました。戦えば戦うほど、私の肉の力はますます強くなりました。弱弱しいのは、神の働き人にふさわしくないと思っていたのです。

 

 「奥義」をキリスト教の「おくぎ」ではなく、仏教の「おうぎ」と言い、「求道者」をキリスト教の「きゅうどうしゃ」ではなく、仏教の「ぐどうしゃ」と言ってしまう私です。本当に難儀しました。

 

 戦いはいつまでも続きます。一つ終わったかと思えば、すぐに新しい戦いに突入します。ほかのクリスチャンたちは信仰に守られ楽しそうなのに、私には平安がなく、まるで悪魔の手下のようにいつも戦っており、戦い疲れていました。

 

 幻を見ました。ダム建設の工事の情景です。水はせき止められ、下の地面は掘られ整地しなければなりません。多くの水を流すためには、ダムを造らなければならない事が知らされました。水が流れていないから渇いているのだ、心が痛むのは心の中に神の御手がはいって工事されているからなのだと分かりました。

 

 やっと、まな板の鯉の心境になりました。それでも、神の御手に噛みついたり、抵抗をしました。このように肉の力が強くて、強情な人は、なかなかきよめられません。

 そして、何度も同じ試練を通されます。私は、痛みに耐えかねて逃げ回っていたのです。困難な状況で、神の御手にすがり、主の御名を呼んで、主にゆだねるという試験は、いつも不合格です。

 また、最初から学び直さなければなりません。しかも、次の試験はもっと難しくなっているのです。同じ試験ならば、2回目3回目の方が受かりやすく思うのですが、神の懲らしめは私の強情を上回っているのです。

 

 同じところをぐるぐると回っていました。

 「あなたがたはこの山に長く留まっていた。向きを変えて出発せよ。」(申命記1:6,7)

 荒野で不従順なユダヤ民族に語られたみことばが、そのまま私へのメッセージでした。

 

 「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」(エレミヤ8:20)

 この御言葉で、試験の失敗を知ります。(あ~ぁ、今年も駄目か。)と落胆する私ですが、日々の祈りと聖書通読は毎日欠かさずにやっていました。

 

 ダムの工事は長期間を要するだろうと観念して、将来のことには思いを向けず、目の前にあることを一生懸命、丁寧にやり続けました。

 そのうち、黙示録の解読に関心を持ち、夢中になりました。神に聞き、祈りと黙想、そして、何度も何度も、解読内容は更新されていきました。

 

 気がつくと、それが私の楽しみとなり、喜びとなり、少し啓かれるとすごい宝を発見したかのようにわくわくしました。

 そして、終りの備えのために、人々に伝えたいと思うようになったのです。

 

 試練もきよめも神の御霊のものです。

 私が一事に夢中になっている間に、気がつくと焦りも恐れもなくなり、心から湧き上がる喜びと平安を体験する者に変えられていたのです。神にゆだねることを日々の生活を通して学ぶ者となり、神への信頼によって信仰が強められていきました。自分自身を愛することもできるようになりました。

 

 日本のキリスト教会の聖霊の器は、神の家の大事な要です。

 ふたりの証人はキリスト教ではない仏教と神道から出るように思います。彼らはまだ、イエス・キリストを知りません。   

 日本の聖霊の器たちは、礎石であるイエス・キリストの上に建つ、御霊が建てられる神の家の協力者です。使徒と預言者を土台とする正統な神の家(七つの御霊の教会)に建てられています。

 

 ふたりの証人のため、十四万四千人のユダヤ人の働きのために執り成すのは、この御霊の器の働きであり、また、イスラエルを祝福しユダヤ人の救いのために祈るのも、日本人の救いのために祈るのも、罪が贖われ、キリストの御霊(真理の御霊)を宿す御霊の器の栄えある務めです。

 

 神道の人々も仏教の人々もどんなに純真な信仰を持っていても、今の段階では、罪の贖いも永遠のいのち【真理の御霊】も受けていないのです。

 日本のキリスト教の聖霊の器は、キリストの血によってすでに贖われており、真理の御霊(永遠のいのち)を受けています。御救いと永遠のいのちの約束は、私たちのものです。

 私たちは、神の家の礎石(イエス・キリスト)に据えられた土台(使徒と預言者)の上に建てられており、世界の御救いのために基本の働きをしているのです。

 

 私たちの祈りが神道を生かし、仏教を生かし、日本人を生かし、はたまた、世界に救いをもたらすのです。

 

 キリスト教会の聖霊を宿す皆さん。いのちの働きを丁寧にしてまいりましょう。私たちの祈りが、神の家を建てる基礎工事であり、また、世界に真理の御霊(永遠のいのち)を下らせるのです。 

 

 「御国をきたらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と、父なる神に祈るのは、御霊によって「アバ、父。」と呼ぶ私たちです。