ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

眠りから覚める時

 

 「天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。 

 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。

 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。」(マタイ25:1-7)

 

 この例えは、携挙のたとえとされています。

 携挙の教会に属する者たちの中には、携挙に備えて祈りを積み上げてその時を待ち望んでいる賢い娘たちもいれば、携挙の信仰を持ちながらみずからはそのために祈ることなく、祈り備えていない愚かな娘たちもいます。

 

 祈り備えた賢い娘も、祈っていなかった愚かな娘も、思っていたよりも携挙の時が遅いように感じて、まだまだと思い始め、張り詰めていた信仰に、ふっと気が緩みます。 

 賢い娘も、愚かな娘も、みな、うとうとして眠り始めた時に、その時がやって来ます。それは、夜中です。誰もが眠りにつく時に、起こされます。

 

 夜中とは、一日二十四時間の夜のことではありません。人々の心が荒れ果てて、愛もなく、望みもなく、神の存在を疑いたくなるような暗い世に、その時があるようです。光が見えない暗い世に、花婿はやって来られます。

 

 世は不安に満ちています。しかし、携挙を信じる人たちは、主の来られるのを待っています。待っているのは、賢い娘たちだけではありません。祈っていなかった愚かな娘たちもまた、携挙の信仰を持っているのです。

 

 ところが、今か今かとその時を心待ちにしていた彼女たちは、みなが眠っている暗い世の中にいて、また、ほかの信者たち(携挙の御霊の教会に属していない仲間たち)の「そんなこと起こるものか」という疑いにさらされつつ携挙の信仰を持ち続ける緊張感に疲れ、うとうとし始めました。

 

 すると、携挙の教会に属する人たちにわかるしるしが現われるようです。彼らは目覚めます。賢い娘たちはもちろん、愚かな娘たちも目覚めます。

 賢い娘たちも、愚かな娘たちも、みな、携挙の信仰を持っています。彼女たちはみな、信仰のともしびを持っています。

 

 祈りを積み上げている賢い娘たちには、信仰のともしびを灯し続ける信仰の油(御霊の祈り)があります。彼女たちは、花婿を迎える用意のある賢い娘です。

 しかし、祈っていなかった愚かな娘たちの祈りのない信仰は弱弱しいものです。携挙の直前に、急いで天に引き上げられる用意をしなければなりません。しかし、花婿は待ってくれません。

 

 「人の子(神の御子イエス・キリスト)の来るのは、稲妻が東から出て、西にひらめくように(一瞬の出来事のように)、ちょうどそのように来るのです。」(マタイ24:27)

 

 備えのなかった愚かな娘たちは、神をたたえ神の栄光を求める御霊の祈りではなく、自分自身の望みとしての人間の祈りをしていたのです。

 彼女たちは、その場で慌てて御霊の信仰を得ようとしますが、一瞬のうちに引き上げられる携挙の時に間に合いません。

 

 用意のできていた娘たちは、花婿(空中再臨されるキリスト)といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸が閉められます。(天に引き上げられる彼女たちは、婚礼の祝宴に着いて、子羊の花嫁〈十四万四千人のユダヤ人〉が来るのを待ちます)

 

 十四万四千人のユダヤ人が使命を果たし終えて天に引き上げられると、いよいよ子羊の婚姻の時が設けられます。

 

 「『ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主(キリスト)は王となられた。

 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。

 花嫁は、光り輝く、きよい亜麻布の衣(殉教者たちの新しいからだ)を着ることを許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。』

 御使いは私(イエス・キリストから黙示を与えられたヨハネ)に『子羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。』と言い、また、『これは神の真実のことばです。(天で催される小羊の婚宴に招かれた者は、神に忠実な者、選ばれた者、召された者なのです)』と言った。」(黙示録19:6-9)

 

 用意のできていた娘たちは、花婿といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸が閉められました。そのあとで、御霊の祈りの用意のなかった愚かな娘たちも来て、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください。」と言いますが、花婿は答えて言います。

 「確かなところ(はっきり言うが)、わたしはあなたがたを知りません。(わたしはあなたがたを知らない)」

 

 何ということでしょう。携挙の教会に属していた御霊の人たちは、用意のなかったことで携挙されないばかりか、迎え入れてくださるはずの主から「わたしはあなたがたを知らない。」と言われてしまうのです。

 御霊を受けていながら、また、携挙の教会に属する者として選ばれていながら、成すべき事を怠っていたのです。それゆえ、主は彼女たちのことを、愚かな娘と呼ばれます。

 

 イエスは言われます。

 「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」(マタイ25:13)

 

 「人の子(キリスト)が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。(世の人々は、箱舟を造るノアを嘲笑いながら、今までの日常がこの先も延々と続くと思っていたのです)

 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼ら(世の人々)は(神にさばかれることが)わからなかったのです。人の子(空中再臨のキリスト)が来るのも、そのとおりです。

 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」(マタイ24:37-42)

 

 携挙の信仰を持つ人たちの半分は残される可能性があります。

 「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子(キリスト)は、思いがけない時に来るのですから。」(マタイ24:44)

 祈り備えて、たゆまずに、御霊の働きを成し続けることです。

 

 まだまだ来ないと思って、世の人たちと同じように過ごしていると、主は、思いがけない日の思わぬ時間に来られます。

 

 用意のできている娘たちは、信仰の勝利者として天に引き上げられます。

 ところが、用意のできていない娘たちは、地上に残され、成すべき事をしていなかった不忠実なしもべとして、罰せられてしまいます。

 

 キリスト者たち、目を覚ましましょう。そして、御霊の祈りを積み上げましょう。

 日本を祝福し、日本人の救いを執り成し、イスラエルを祝福し、ユダヤ人の救いを執り成しましょう。

 

 赦せない人がいるならば、神に正直に打ち明け御霊の助けを受けましょう。

 「主よ。私はあの人が赦せません。助けてください。憎しみをかかえたまま罪の中にいたくありません。この罪の呪いから救い出してください。

 私は主のもの。私の悲しみも怒りも憎しみもあなたの御前に置きます。私を解放してください。」

 

 何を言われたのか、何をされたのか、そして、自分がどう感じ、どう思ったのか、すべてを神の御前に出してください。

 すべての事を正直に神に打ち明けましょう。自分で自分をさばいたり、自分をかばうことなく、ありのままを神の前に言い表わしましょう。

 そして、主にゆだねましょう。

 

 言い表わした罪は赦されるのですから。

 神は、私のために何もしてくれないとあきらめてはいけません。

 もし、神から悔い改めなければならないことを示されたなら、意固地にならないで、自分自身が悔い改めなければならない事だと認める勇気を求めましょう。

 神と親しくなってください。

 

 「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第一1:9)

 

 眠りから覚めて、御霊によって自分を整えて、自分を赦し自分自身と和解し、また、他者を赦し他者との平和を保ち、神への信頼を深めてまいりましょう。