聖書を知る人たちは、肉体が滅んだ後にも、魂は生き続けることを知っています。
そして、死後に裁きがあることと、その裁きの後でそれぞれの魂が二つのグループに分けられて、永遠の住まいに入ることも知っています。天国と地獄です。
天国とは、神の御住まいである、神の栄光の輝きに照らされた光の世界であり、鮮やかな色彩とかぐわしい香りといのちの世界です。
すべてのものに神のいのちが溢れ、調和と喜びと平安に満ち、愛に安息する、永遠のいのちの世界です。
地獄とは、神に敵対する悪魔と悪霊どもの牢獄であり、罪の燃える火と罪の悪臭と死の世界です。そこには、神がおられません。
すべてのものが罪の報酬の死に捕えられて、破壊と憎しみと争いに満ち、悪魔と悪霊どもの怒りと支配に苦しむ、永遠の死の世界です。
すなわち、神の支配下に入る者と、悪魔の支配下に入る者とが、きれいに真っ二つに分かれます。双方の世界を互いに行き来できません。二つに分かれた二つの世界(神が支配される光といのちと愛の世界と、悪魔が支配する死と闇とが永遠に燃やされる火の池の世界)が、それぞれの魂の永遠の住まいとなるのです。
魂の永遠の住まいは、肉体があって地上に生きている間に、めいめいが自分の魂の行き先を選択した結果です。ほかの誰かが決めているのではありません。生まれた時から決まっているわけでもありません。
魂の経験と、魂の歩みと、魂の決断が、それぞれの魂の永遠の行き先を決定するのです。どの人のうちにも魂はあります。肉体の欠けをもって生まれて来る人はいるけれども、それは魂の欠けではありません。
魂は、生まれつき盲人の人にも、耳の聞こえない人にも、生まれつき起き上がることも歩くことのできない人にも、手のない人、足のない人にも、等しく存在しています。
魂がその人自身だからです。肉体の欠けが魂の欠けとなるわけではありません。頑強な肉体がすぐれた魂であるとは言えません。容姿の美しさが魂の美しさであるとは言えません。声の美しさがそのまま魂の美しさであるとも言えません。
目に見えるもの、肉体で感じるものは、神のお与えになった賜物です。その人自身のもののようであって、実は、それをお与えになった神のものです。
それを自分自身のもののように振る舞って、神への感謝を怠るならば、その魂は美しいとは言えません。
もし、肉体に欠けがあっても、自分が生きていることを感謝し、いのちを喜び、愛を知り、目に見えないものへの畏敬の念を持っているならば、その魂は美しいのです。
現在の日本に、胎児記憶を持つ子どもたちが多くいると言います。それらの子どもの記憶は、一致しています。
実は、魂の状態であった時に、魂が肉体を持つ人として地上に生まれるに当たって、魂自身が自分の生まれる両親と環境を選び、また、魂が経験する課題を決めて生まれているというのです。
悲しみの体験を希望する魂は、そのような家庭環境であると理解した上で、自分でその父と母を選び、悲しみを克服することを課題として、生まれて来るそうです。しかし、母の胎内にはいると、魂に課した課題の記憶を忘れてしまうのだそうです。
人はみな、様々な苦しみや困難を想定した上で、魂の立てた課題をもって、生まれて来ているようですよ。
神は、それぞれの魂が魂自身の立てた課題をクリアして、永遠のいのちを得て、新しく神の子どもに創造されることを期待して、それぞれの魂が希望した胎内に、その魂の肉体をかたち造っておられるようです。
魂は、課題をクリアして永遠のいのちを得る神の子どもとされるために、克服する課題を神に自己申告し、希望をもって生まれてきているのですね。
残念ながら、おぎゃあと生まれて来た瞬間に、下界の空気を吸って、魂の課題を忘れてしまうようです。
胎児記憶を持つ子どもたちが言うには、日本人として生まれたいという魂は多くて、たくさんの魂たちが並んで自分の番が来るのを待っているそうです。また、日本人として生まれるのは、ハードルが高いそうです。
日本人に生まれたことは、日本人にとって感謝なことですね。まず、自分が日本人であることを感謝しましょう。
しかし、永遠のいのちを得る神の子どもに造り変えられなければ、日本人として生まれた祝福を生かし切れていないということになります。
私たちの魂は、日本人のDNAを持つ魂とされました。
日本人のDNAのうちにある自然や他者と調和する和の心、目に見えない大いなる力(神)への畏敬の念と感謝の心、また、聖書を持たないアブラハムが持っていた生けるまことの神を恐れ、霊とまこと(神を恐れる真実な心)をもって神を礼拝する信仰とが組み込まれているのです。
おそらく、現在の日本人の多くは、終りの時代の人々に生けるまことの神を知らせ、ほかの魂たちを救う働きをするということを選んで生まれてきているのではないでしょうか。
魂の行き先を決めるのは、今生の生き方によるのです。
魂が望む方向ではない道を選ぶのは、魂の声を無視した人生の結果です。
魂が望むいのちを得る道を選ぶ人生は、世の荒波に逆流する苦難の道の先にあります。
せっかく日本人に生まれてきたからには、自然を愛し、いのちを尊び調和する心を養いましょう。自然の中に大いなる方の気配を感じて目に見えない神への畏敬の念が芽生えてくることでしょう。
日本の総鎮守と呼ばれる愛媛県の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)では、一人角力(ひとりずもう)の祭礼があるようです。
大山祇神社の御桟敷殿(さじきでん)と神饌田(しんせんでん)(神に供える米を作る田)の間に設けられた土俵で行なわれる行事だそうです。一力山(いちりきざん)が目に見えない稲の精霊と相撲をとる一人角力(ひとりずもう)が奉納されるのです。
日本の相撲は、神技と言われますが、神に奉納するものだったのですね。
この相撲は、旧約聖書のヤコブが神の人と格闘した様を彷彿とさせます。ユダヤ人たちは律法や掟と祭りを守ることで神に仕えています。
日本には、何故か旧約聖書の出来事を記念する祭りが各地に残っているようです。聖書を知らない日本人が旧約聖書の神の記憶をとどめているようですね。
神から民族的な御救いの約束を持つユダヤ人のパウロは言います。
「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエス(神が御救いのために遣わされた神の御子キリスト)を信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ2:16,16)
良い行ないが、天の御国にはいる条件ではありません。
天の御国にはいるのは、神の御子イエス・キリストを信じる信仰によるのです。なぜならば、天の御国の主権者は王である御子イエス・キリストだからです。
異邦人の使徒として召されたパウロは言います。
「私(パウロ)は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。(モーセの命令である「神が遣わされたキリストに聞き従う」ために、文字の律法に死に、生かす御霊に聞き従う者とされたのです)
私はキリストとともに十字架につけられました。(罪に死んだのです)もはや(罪人の)私が生きているのではなく、キリスト(の生かす御霊)が私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった(キリスト〈救世主〉である)神の御子を信じる信仰によっているのです。
私(パウロ)は神の恵み(神が遣わされた救い主キリストを信じる信仰をくださった神の恵み)を無にはしません。
もし義(罪の赦しと天の御国にはいる許し)が律法(人の正しい行ない)によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。(神は、神の御子イエス・キリストの御名を信じる信仰によって、永遠のいのちと、天の御国の相続を得させてくださるのです)」(ガラテヤ2:19-21)
聖書を知るキリスト者たちは、信仰によって義とされ、神の子どもとされることを知っています。神の子どもの歩みを全うする決意をしましょう。
神の子どもとして、信仰の道を歩んで信仰の勝利者とならなければ、永遠のいのちを得ることはできません。
魂の声を無視して世の人々にならい信仰の道を外れて、世の人々と同じ復活の望みのない死の道を歩むのでしょうか。
魂の声に耳を傾けましょう。魂に聞きましょう。自分の決意する人生の行き先に、魂の永遠の住まいがあるのですから。
信仰の勝利者たちが七つの御霊の教会にはいり、永遠のいのちを得る新しい人、すなわち、キリストのからだとなるのです。
キリスト者たちが、正しい決断をしないならば、神は、彼らの代わりに、神道や仏教やそのほかの宗教や、無宗教の人々の中から招き、生かす御霊に忠実な人たちを神の子どもとされるのでしょう。