ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

使徒七章 同胞を顧みる心はくじかれ 神の使命によって立つ

 

 「モーセは神の目にかなった、かわいらしい子で、三か月の間、父の家で育てられましたが、ついに(ユダヤ人の幼子〈男の子〉は捨て生かしておいてはならない、とのエジプトの王の命令により)捨てられたのをファラオの娘が拾い上げ、自分の子として育てたのです。(ナイル川に浮かべたかごに入っていたユダヤ人のレビ族のかわいらしい男の子は、ファラオの娘に拾われて、「モーセ(〈水の中から、私がこの子を〉引き出した)」と名づけられました)

 (エジプトの王の娘〈王女〉の子となったユダヤ人の)モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。

 四十歳になったころ、モーセはその(血肉の)兄弟であるイスラエル人を、顧みる心を起こしました。

 彼(モーセ)は、自分の手によって神が兄弟(ユダヤ民族十二部族)たちに救いを与えようとしておられることを、みな(ユダヤ人たち)が理解してくれるものと思っていましたが、彼ら(血肉の同胞であるユダヤ人たち)は理解してくれませんでした。」(使徒7:23-25)

 

 エジプトの王は、国民であるエジプト人の人口よりも増え広がる奴隷のユダヤ人の力を恐れ、ユダヤ人に生まれた男の子をみな殺すように、助産婦に命じました。

 奴隷の民ユダヤ人たちは、過酷な労働を課されて苦しめば苦しむほど、ますます増え広がったので、おびただしく増え、すこぶる強くなり、エジプトの地はイスラエル人で満ちたからです。

 

 そんなときに、レビ族にひとりの可愛らしい男の子が生まれました。神は、その男の子に御計画をお持ちでした。

 神は、男の子の家族に知恵を与え三カ月間養った後で、王女の水浴びをする川に水の入らないかごに入れて浮かべました。

 

 エジプトの王の娘は、その子がへブル人(ユダヤ人)の子であることを知っても、その可愛らしいのを見て、自分の子として育てました。神の知恵がここにあります。

 神は、王女に、そのユダヤ人の男の子への愛情を植え付けて、王女自身が「モーセ」と名づけて自分の子として育てさせたのです。

 

 モーセはエジプトの王女の子、すなわちエジプトの王の孫としてエジプト人の中で育てられました。王家の子として、大国エジプトのあらゆる学問を教え込まれたモーセは、最高の知識と知恵を持ち、エジプトの中でも最も立場のある者として育ちました。

 

 同胞のユダヤ人たちは、エジプトの奴隷としての苦役が課せられていました。しかし、モーセは、支配者であるエジプト人の側にいました。

 

 四十歳になったころ、モーセは血肉の同胞であるユダヤ人を顧みる心を起こしました。神の御計画にあったことです。

 

 しかし、エジプト人側にいるモーセが奴隷の味方であることを、ユダヤ人たちは信じませんでした。モーセは、エジプトの王の怒りを恐れて荒野に逃げ、ミデヤン人の祭司の娘と結婚して羊飼いとなりました。

 

 モーセは、自分の手によって神がユダヤ人たちに救いを与えようとしておられると思って、ユダヤ人を虐待するエジプト人を殺しました。

 モーセは、ユダヤ人たちもまた、血肉の同胞(ユダヤ人)のモーセが、奴隷のイスラエル人をエジプト人から救うことを理解するものと思ったのに、ユダヤ人たちは理解しませんでした。

 王女の子として育てられたモーセは、エジプト人から一目置かれていました。エジプトのあらゆる学問を教え込まれたモーセは、ことばにもわざにも力があったからです。モーセに反対する者はいません。モーセは、みなから信頼されていたのです。

 

 しかし、血肉の兄弟であるユダヤ人たちは、モーセを信頼しませんでした。モーセにとって、おそらく初めての体験だったことでしょう。

 羊飼いとなったモーセは、荒野で約四十年の時を過ごしました。荒野での土地感覚も掴んでいたことでしょう。

 

 そんなときに、神の御使いが、モーセに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現われたのです。

 モーセは、燃えているのに燃え尽きない柴の光景を不思議に思い、よく見ようと近寄ったとき、主の御声が聞こえました。

 

 「わたしはあなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。」(使徒7:32)

 

 「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたの立っているところは聖なる地である。(モーセは、聖なる神とお会いしたのです)

 わたし(神)は、確かにエジプトにいるわたしの民(イスラエル)の苦難を見、そのうめき声を聞いたので、彼ら(エジプトの奴隷として苦しめられているユダヤ人たち)を救い出すために下って来た。さあ、行きなさい。わたし(アブラハム、イサク、ヤコブの神)はあなた(モーセ)をエジプトに遣わそう。」(使徒7:33,34)

 

 四十年前、自分の手によって神が兄弟(ユダヤ人たち)に救いを与えようとしておられると思ったモーセですが、その時には、神のことばはありませんでした。

 

 それから四十年経った八十歳のモーセに、主の御声がかかりました。モーセは、主御自身の御声で任命されたのです。確かに、神は、モーセによって、奴隷のユダヤ人たちを救う御計画をお持ちだったのです。

 

 神は、モーセ自身の知識と知恵と力に頼られません。エジプトの王家の子としての地位や名誉も必要とされません。

 モーセは、荒野で四十年間羊飼いでした。ユダヤ人たちから最も卑しい職業とされる羊飼いです。王家の子の栄華はありません。

 人間に教えられた知識ではなく、荒野の環境で自然から学び、荒野の道なき道を知る感覚を養い、迷える羊たちを集めながら獣から守り、また、弱い羊に合わせて群れ全体を導く羊飼いとして、羊の群れを養うことを学びながら、モーセは、ユダヤ民族の指導者とされるために、神に、育てられていたのです。

 

 王家の子であったとき、モーセは、自分の力を知るものでした。自分の力に人々が従うことを知っていました。彼らに、不服従という選択はありませんでした。みなは、モーセの権威のもとにへりくだるのです。

 

 羊飼いのモーセは、自然の力を知るものです。自然の中では、エジプトの学問も知識も無力なものです。人の力は、自然の力にかなわないことを知るモーセです。

 羊たちは、モーセの思い通りにはなりません。獣から守らなければなりません。羊たちには知恵も力もないのです。自然の中で働かれる目に見えない方の助けを求める羊飼いモーセには、神を恐れる心がありました。

 

 神は、自分自身の無力な事を悟り、神にへりくだり、神に聞き従うモーセに、仰せられました。

 「さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう。」

 

 モーセが救う者であることを理解しないユダヤ人たちのところに遣わされるのです。

 また、かつて、モーセの命を狙うエジプトの王がいたところに遣わされるのです。

 

 かつて、同胞を顧みるモーセの心はくじかれました。モーセは、神が兄弟(ユダヤ人)たちに自分の手によって救いを与えようとしておられると思っていたのに、結果は散々たるものでした。神の時ではなかったからです。

 

 おそらく、日本人から立つイスラエルのメシアもまた、苦悩していることでしょう。

 また、イスラエルのメシアに神の使命の油を注ぐために召される白い兄(キリストの血によって贖われ、聖霊の器である人)もまた、火の試練の中をくぐって整えられていると思われます。

 

 イスラエルのメシアは、キリスト教会にはいません。聖書を知らない人なのです。

 卍の紋章を持つその人は、仏法に厳格な人であるかも知れません。キリストのことばを持つ白い兄を素直に受け入れるでしょうか。

 

 アナニヤとサウロのような出来事が起こるのかも知れません。

 アナニヤはサウロを恐れましたが、神から「行きなさい。あの人(サウロ)はわたし(イエス・キリスト)の名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」(使徒9:15)と命じられて、サウロのところに行き、按手しました。

 

 神は、日本人から起こるイスラエルのメシアとアロンのメシアのふたりに、ユダヤ人のところに行って、神のことばを語るように命じられるでしょう。

 聖書を知らない民から起こるふたりの証人の話を、律法の下にいるユダヤ人たちは聞くでしょうか。

 

 神は、ふたりの証人に、彼らの血肉の兄弟(ユダヤ人)を顧みる心を与え、ユダヤ人のところに遣わされることでしょう。

 ふたりの証人は、神に召されて、イスラエルに遣わされることでしょう。

 

 日本のキリスト者は、日本から立つイスラエルのメシアとアロンのメシアの使命が、神の御心どおりに成し遂げられること、また、悪いものに妨げられずに、神に守られて、神のしるしと奇蹟が現わされ神の栄光が現わされるように、執り成しましょう。