ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神を知る

 

 「エフライム(北イスラエル)よ。わたし(神)はあなた(十部族)に何をしようか。

 ユダ(南ユダ)よ。わたしはあなた(二部族)に何をしようか。

 あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。

 それゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを(神に不誠実な北イスラエルも南ユダをも)切り倒し、わたしの口のことばで(神の思いのままに)彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現われる。(光が闇に隠されることのないように、明らかに現われる)

 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。(あなたがたは、しきたりとして生贄を神にささげるが、あなたがたの心は神から遠く離れている。心の伴わない生贄があなたがたのために何になろうか。神はそれを受け入れられない。神は、儀式に忠実であることより、あなたがたのうちに誠実な心を御覧になりたいのだ)

 全焼の生贄より、むしろ神を知ることを喜ぶ。(文字の律法の奴隷となっている民は、生贄の血を流すことはするが、自分自身の心を神の御前に注ぎ出して神を知ることはしない。あなたがたの信仰は儀式であって、生ける神の御前にささげるいのちの通う礼拝を忘れてしまっているからだ。あなたがたの心に感謝と喜びはあるのか)」(ホセア6:4-6)

 

 預言者ミカは言います。

 「あなた(イスラエルの神)のような神が、ほかにあるでしょうか。

 あなたは、咎を赦し、ご自分のもの(神の民)である残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、慈しみを喜ばれるからです。(イスラエルの神は、御自身の民の不義を御覧になると怒りとさばきによって懲らしめ、民が悔い改めるならばいつまでも怒っておられず、慈しみと憐れみをもって、とこしえに民を愛される、生けるまことの神です)

 もう一度、私たち(神にそむいた神の民)を憐れみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。(神の民の咎を踏みつけて民を我に返らせてくださり、神の民が犯した罪をすべて海の深みに入れて、神の民の中から取り除いてください)

 昔、私たちの先祖に誓われたように、真実(神の約束の確かなこと)を(契約をお与えになった)ヤコブ(神と人と戦って、アブラハムの祝福と相続の約束を得たイスラエル〈神の民〉)に、(罪を赦し神の子どもとして迎え入れてくださる)慈しみをアブラハム(アブラハムの信仰を受け継ぐ血肉の子孫イスラエルと、アブラハムと契約を結ぶアブラハムの神、すなわち全能の神であられる主を信じる信仰の子孫〈生けるまことの神を霊とまことによって礼拝する人々〉)に与えてください。」(ミカ7:18-20)

 

 ミカは、神を知る者でした。

 ミカは、神が赦すお方であり、御自身の契約に真実なお方であり、憐れみ深く慈しみ深い神であることを知っていたのです。

 

 アブラハムの神は、天地万物を造られた全能の神です。アダムとエバ、そして人類を造られた創造主です。

 すべての魂は、御自身を「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主」と呼び、「イスラエルの神、主」と名乗られる神、すなわち、「いのちの根源」であられる生けるまことの神を知っています。

 

 肉体にはいった魂は、肉体の持つ肉欲に妨げられて、神を知らない者となってしまいましたが、魂は知っています。肉体を脱いで、魂に戻ると明らかとなります。

 

 神は、人の犠牲を求めておられるわけではありません。人の努力や熱心によって神の国を建てられるのではありません。

 

 神は、神を知ることを喜ばれます。神の国は、神御自身の設計により、神の御霊が造られるのです。

 

 「イエスは彼ら(大勢のユダヤ人たち)を離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。

 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。『パリサイ人のパン種とヘロデのパン種(もしくはサドカイ人のパン種)とに十分気をつけなさい。』

 そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。

 それに気づいてイエスは言われた。『なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。(目に見えるところにばかりにあなたがたの思いがあって、あなたがたは目に見えない霊的なことを悟れないのですか)

 目がありながら見えないのですか。(見える機能を持つ目を肉体に持ちながら、霊の目は閉じたままなのですか)耳がありながら聞こえないのですか。(聞こえる機能を持つ耳を肉体に持ちながら、霊の耳は塞いだままなのですか)あなたがたは、覚えていないのですか。

 わたし(神の御子イエス・キリスト)が五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。』彼らは答えた。『十二です。』

 『四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。』彼らは答えた。『七つです。』

 イエスは言われた。『まだ悟らないのですか。』(イエスはたとえで話されたのです。弟子たちは、イエスが感謝をささげて祈ると、五千人、あるいは四千人が満腹するほどにパンが増える奇蹟を見たではないですか。イエスは、霊的なことを目に見えるものに置き換えて弟子たちにわかるように、たとえで話されたのです)」(マルコ8:13-21)

 

 「『わたし(イエス・キリスト)の言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。

 ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種(偽善)に気をつけることです。』

 彼ら(弟子たち)はようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。」(マタイ16:11,12)

 

 神は霊です。イエスは、霊のことを、肉体を持つ弟子たちに理解できるように、たとえで語られました。霊のことを悟らなければ、神のことはわからないのです。

 

 霊が閉じていて、罪を犯す神の民に、ホセアは言いました。

 「さあ、主に立ち返ろう。 

 主は私たちを引き裂いた(イスラエル王国〈ユダヤ民族〉は、南ユダ王国〈二部族〉と北イスラエル王国〈十部族〉に分裂した)が、また、癒し、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。(神は、十二部族の回復の時をもうけてくださる)

 主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。

  私たちは、知ろう。(霊なる神を、霊によって知る者となろう)

 主を知ることを切に追い求めよう。(私たちの霊が目覚めて、御霊の教えを受ける者〈御霊の子〉とされよう)

 主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。(主は、夜明け〈異邦人の時が完成して「ユダヤ人の時」が起こされる〉とともに、必ず御自身を現わして〈ふたりの証人を遣わし、また、十四万四千人のユダヤ人の世界宣教によって〉、神の民に信仰の種〈神のことば〉を蒔き、信仰を芽生えさせて、収穫の実を刈り取るように、神の民の魂を救われる)」(ホセア6:1-3)

 

 「主はこう仰せられる。

 『知恵ある者は自分の知恵を誇るな。強者は自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。

 誇る者は、ただ、これを誇れ。 

 悟りを得て、わたし(天地万物の創造主、唯一まことの生ける神)を知っていることを。

 わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのこと(悟り〈真理の御霊〉を得て、まことの神を知り、霊とまことをもって神の御前に立つ神の民の誠実)を喜ぶからだ。

 ―主の御告げ。―」(エレミヤ9:23-24)

 

 終わりの時、神に立ち返った者たちは言うでしょう。

 「私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。

 私の神は私の願いを聞いてくださる。」(ミカ7:7)

 

 神を知る人はあきらめません。

 神の真実は信頼すべきものであり堅固な巌であること、そして、自分のうちに真実はなく、不真実であり不誠実であったことを悟るのです。

 

 神は、肉が破れ霊に開かれた人たちに、手を差し伸べられます。

 「わたし(真実なる神)は(救いの神を知った)あなたと永遠に契りを結ぶ。

 正義と公義と、恵みと憐みをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなた(の魂)と契りを結ぶ。

 このとき、あなたは主を知ろう。」(ホセア2:19,20)