神が、闇に光を造り、天と地を造り、生き物を造り、最後に「人」を造られたとき、すべてのものを御覧になると、それは非常に良いものでした。
それゆえ、私たちは神の作品であると言われています。天地万物は神が造られた神の作品なのです。
あるモデルの女性が、イエス・キリストに出会いクリスチャンになった後で、語ったことばがあります。
「自然を見ると、春は美しいピンクや白色や黄緑色に山々が覆われ、夏は濃い緑に輝き、秋になると赤色や黄色やオレンジ色や様々な色に装われる。冬は白く雪化粧をして、春を待つ。
神は、こんなに様々な色で御自分の被造物を楽しんでおられる。神は美しいものを愛されるお方です。それならば、私も様々な色のファッションを楽しもう。」
神がその存在を満足された「土の塵から造られたアダム」は死にました。罪の結果である、罪の報酬の死を受けたからです。
いのちの息を吹き込まれた神のことばから外れたアダムのうちに、神の息は長くは留まりません。
神が「わたしの霊は、永久には人のうちに留まらないであろう。それは人が肉(土で造られたもの)にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」(創世記6:3)と仰せられたからです。
「神である主は、土地の塵で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生き物となった。」(創世記2:7)
神のいのちの息を吹き込まれた人は、生きものとなって、人生を歩みます。
そして、神の時に、神のいのちの息が肉体から抜かれると、死んだ抜け殻となります。罪によって死んだアダムは、彼が取られた土にもどります。
しかし、神は、御自分のひとり子のために、死んだアダムを死から救い出し、造り変えて、永遠に生きる御霊の人(御霊が新しく創造する霊のからだの人)を新しく創造されます。
土から造られたアダムは、肉眼に見える物質の世界で生きるものです。しかし、彼のうちにある魂は、永遠に生きる霊です。
肉体を失った霊はどこへ行くのでしょうか。
肉体は土に返りました。神のいのちの息は、肉体の中にあったときに、有効でした。肉体から離れた霊は、神のいのちの息とは完全に離れたものです。
罪の中で死んで行く人の肉体は土にもどり、その霊は神から離れて死の国にはいります。死の国にはいのちがありません。
神は、御子のために、神のいのちの息を取り除かれた後にも永遠に生きる「第二のアダム」を新しく創造されました。第二のアダムには、土に還る肉体に替えて、永遠のいのちの「霊のからだ」が着せられます。
一度死んでも甦り、死から復活する新しい人(第二のアダム)です。第二のアダムこそが、神の栄光を現わす「人」であり、神の作品なのです。
「私たちは、神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)
神は、最初の人アダムには、良い行ないではなく、「善悪を知る知識の木の実を食べてはならない。」という命令を与えました。
土から造られた人には自由意思がありました。神は、人を奴隷として造られたのではなかったからです。
神の命令を聞いてはいたが、善悪を知らないアダムには、神の命令を守ることが良い行ないである、という認識はなかったのです。
アダムの前には、二つの道がありました。
神の命令を守って善悪を知る知識の木の実を食べないで生きる道と、善悪を知る知識の木の実を食べて死ぬ道です。
善悪を知る事を学んでいないアダムには、善悪を知るという事は何か魅力的で興味深いものに感じられたことでしょう。
エデンの園では、善悪を定めることは主権者であられる神にありました。
神のことばに全き善があり、神のことばに従わないことは違反であり罪であり全き悪であったのです。
人は、自分の知らない世界があることを蛇の言葉によって知り、まだ見ぬ世界に心が惹かれてしまったのです。全き光の世界には存在しない闇に触れてしまいました。
土から造られた人の性質は完全な光ではありませんでした。完全な光である神のことばによって、光の中に存在していたのです。
神は、神のひとり子と聖霊によって、新しい神の作品「第二のアダム」を創造されました。闇に存在しない「光の人」を造られるのです。
土から造った肉体の中にある魂を、神の子羊(神の御子イエス・キリスト)の血できよめて死に値する罪を取り除き、キリストの生かす御霊によって良い行ないをする新しい人に造り変えられます。
そして、新しく創造した第二のアダムを肉体の死から甦らせて、御霊のお与えになる新しいからだ(復活の霊のからだ)で永遠に生きる神の子どもとされるのです。
神は、新しい人(第二のアダム)を、良い行ないをするために(神の御子)キリスト・イエスにあって造られます。
神の御子イエスは、十字架で罪の贖いの子羊の血を流し、生かす御霊により死から復活のからだ(霊のからだ)で甦り、天に上られました。
神のひとり子は、神の御子の栄光の御姿を捨てて、女から生まれる「人の子」となり、死に勝利してみずから第二のアダムの初子となられたのです。
最初の人、アダムは、罪の中で死んでゆく者となりました。
最後のアダム(第二のアダム)は、罪が赦されて復活のからだを着て死から甦り、永遠のいのちを得させられる神の子どもとなります。
神は、罪の中で死に、土にかえるアダムを生きる者とするために、神の子羊の血で罪を贖い、悔い改めの霊を注ぎ罪を悔い改める人に、生かす御霊を与えられます。
生かす御霊を受ける人々は、良い行ないをするために、キリスト・イエスにあって造られた「第二のアダム」です。
良い行ないとは、神のひとり子イエス・キリストを信じ、神の御子イエスの足跡を歩むことです。
神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださいました。
神は、道なき道、道しるべのない道を歩んで真理を見出すようにとはされません。
神は、永遠のいのちへと導く真理の道(いのちの道)を、世界に明らかにされています。
十字架につけられた神の御子イエス・キリストにおいて、御救いを全世界に現わしておられるのです。
心に覆いの掛かっている人も、主に向く(十字架の主イエス・キリストに心を向ける)ならば、真理の光を妨げる覆いは取り除かれ、啓示の光によって真理を知り、神の御救いの御計画を知るのです。
真理を悟らせない覆い(人間の教えや偽りの真理や悪しき者の策略や罪)は救い主イエス・キリスト(の世の罪を取り除く贖いの血)によって取り除かれるものだからです。
神は、神の御子イエス・キリストと聖霊によって新しく創造される、神の作品である第二のアダムが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださいました。
私たちは、第二のアダムのかしらであるイエス・キリストにならい、神のことばとともに歩み、神をほめたたえる者として造られました。
「私たちはみな、顔の覆いを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。(私たちの心は、天のもの、永遠のものに向けられ、神を愛する者、喜ぶ者、まことの神に祈る者に変えられて行きます)これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(コリント第ニ3:18)
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福(永遠のいのちと天の御国を相続する神の子どもの祝福)をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、ただ御心のままに、私たちをイエス・キリストによって御自分の子(神の子ども)にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
それは、神がその愛する方(神のひとり子イエス・キリスト)によって私たちに与えてくださった恵み(御救いと永遠のいのち)の栄光が、(とこしえに)ほめたたえられるためです。」(エペソ1:3-6)
私たちは、神によって、天の御国の物語に組み合わされています。
良い行ないに歩むように造られた神の作品なのです。