天地万物を造られた神は、神のひとり子に肉体を造り、神の契約の民イスラエルに遣わされました。
神の御子が「人の子」となられて、イスラエルに来られたのです。それは、神がイスラエルに約束しておられたことでした。
天地万物を造られた全能の神、主は、アブラハムにカナンの地を与えることを約束して、その契約のしるしの割礼をアブラハムとアブラハムの子孫の肉体に要求されました。イスラエルは、割礼を受けたアブラハムの子孫であり、アブラハムの跡取りです。
アブラハムの跡取りは、神御自身が決められました。
神がアブラハムに約束された相続地であるカナンの地を所有するのは、跡取りのイスラエルであり、また、イスラエルは、すべての民族の祝福の基となると約束された父アブラハムから出た神の祭司の国民であり、世界を救う救世主キリストは彼ら(ユダヤ人)から出現することが、神によって定められているのです。
キリストがイスラエルに遣わされるとか、イスラエルから出現するというと、大人のキリストを想像しますが、スーパーマンのように現われたわけではありません。
神は、御自分のひとり子のために、ユダヤ人の処女マリアの胎内に肉体を造られました。キリストは、赤子として、処女マリアからイスラエルのダビデ王の町ベツレヘムに生まれました。
マリアの許嫁の夫ヨセフの先祖の町で生まれたのです。キリストは、ダビデの子ヨセフを父として育てられました。名前はまことの父である神(神の御子の本当の父親)によって「イエス」とつけられました。神の御使いがつけた名前です。
ダビデの町ベツレヘムで生まれたイエスは、ナザレの町のヨセフの子として育てられました。ヨセフの子イエスは、ダビデの子なのです。
神は、ダビデ王に、「あなたにひとりの子が生まれる。彼がわたしの名のために家を建てる。彼はわたしにとって子となり、わたしは彼にとって父となる。わたしはイスラエルの上に彼の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(歴代誌第一22:9,10)と約束しておられました。
ダビデ王のひとりの子とは、ソロモン王のことであり、究極的には、アブラハムのひとりの子孫とされる「人の子」キリストをさすと思われます。とこしえの王座に着くのは永遠に生きておられるメシア【神のひとり子イエス・キリスト】だからです。
御使いが処女マリアに受胎告知のために現われたときに、御使いが言ったことばを思い出しましょう。
「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子(神の御子)と呼ばれます。また、神である主は彼(イエス)にその父ダビデの王位をお与えになります。(すなわち、神は、神の御子イエス・キリストにダビデの王位をお与えになり、キリストは「イスラエルの王」として、ダビデの王座にとこしえに着くということです)
彼(イエス)はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。(神の御子イエスは、ヤコブ、すなわち、神と人と戦って、神の祝福〈永遠のいのち〉を勝ち取った、信仰の勝利者たちのイスラエル〈永遠のいのちを得させられ七つの御霊の教会に属する神の国の国民〉を治め、その国(とこしえのイスラエル)は永遠に堅く立ち、天の御国を相続するのです)」(ルカ1:31-33)
さて、羊飼いたちが野宿の番で夜番をしながら羊の群れを見守っていると、主の使いが現われて、「きょうダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがた(神の契約の民であるユダヤ人たち)のために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリスト(神があなたがたの先祖に約束しておられた、あなたがたのために遣わされた救い主)です。あなたがた(羊飼いたち)は、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:11,12)と言いました。
羊飼いたちは、飼葉おけに寝ておられるみどりごを捜し当てて、全部御使いの話のとおりだったので、神を崇め、賛美しました。
羊飼いたちは、御使いが「この方こそ主キリストです。」と言った赤子のイエスを見て、賛美しました。
エルサレムにシメオンと言う名の正しい人がいました。彼は、敬虔な人で、(ローマ帝国の圧政に苦しむ)イスラエルの慰められることを待ち望んでいました。彼は、主のキリスト(イスラエルの神がイスラエルに遣わすと約束しておられる「主キリスト」)を見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていました。
イエスの両親は主の律法により、幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行きました。
御霊に感じて宮にはいったシメオンは、幼子イエスを腕に抱き、神をほめたたえて言いました。
「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべ(私)を、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救い(キリスト)を見たからです。御救いはあなたが、万民(人類)の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」(ルカ2:29-32)
シメオンは幼子のイエスを見ました。シメオンは、幼子のイエスを見て「神の御救い」と言って、この幼子イエスはシメオンが待ち望んでいた、イスラエルを慰める主キリストであると証言し、また、「異邦人を照らす(異邦人に神の御救いを知らせる)啓示の光、御民イスラエルの光栄(世界の祝福の基となると神に約束されたアブラハムの子孫、イスラエルの誉れ)」と言ったのです。
イエスの弟子たちは、イエスの行なわれる奇蹟や不思議やしるしを見ました。イエスは、水を葡萄酒に変え、悪霊を追い出し、病人を癒し、死人を生き返らせ、罪人を赦されました。
弟子のペテロはイエスに言いました。
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)
異邦人が考えるような「救い主」ではありません。永遠のいのちを得させてくださる「神の御子主キリスト」なのです。
弟子たちは、十字架につけられたナザレのイエスを見ました。
十字架につけられた主イエスは、父(イエス・キリストのまことの父である、イスラエルの神)に言われました。
「父よ。彼ら(イエスを十字架につけたあなたの民ユダヤ人たち)をお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(蛇〈悪霊ども〉に噛まれたヤコブの子ら〈イスラエル〉は、自分たちが神の御子を十字架につけたことがわからないのです)」(ルカ23:34)
ユダヤ人たちは、十字架につけた神の子羊イエスを見ました。
弟子たちは、イエスが十字架から降ろされ墓に納められて、墓に封印されたのを見ました。
しかし、主イエスは甦られました。
女たちが墓に行くと、封印が解かれていました。そして、青年(御使い)が言いました。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方は甦られました。ここにはおられません。」(マルコ16:6)
そして、復活された主イエスは、復活のからだで、弟子たちにお会いになりました。壁を抜けることもでき、食べることもできる、新しいからだで甦られました。
弟子たちは、復活のからだのイエスを見ました。しかし、まだ、聖霊のバプテスマを授ける権威を持つキリストではありませんでした。
使徒たちの見ている間に、イエスは上げられ、雲に包まれて、見えなくなられました。イエスは、父なる神のみもとに帰られたのです。神の御子イエス・キリストは、ご自分を遣わされた父なる神のもとに帰られたのです。
子羊イエスは、神の御座の御前に出て、神から主権と光栄と国を受けられました。神に聞き従い御救いのみわざを成し遂げた神の子羊イエスは、神から、聖霊のバプテスマを授けるキリストの権威を受けられました。
地上の弟子たちは、主イエス・キリストの御名によって、聖霊のバプテスマを受けるのです。
ある教会では、母マリアの腕に抱かれた赤子のイエスを仰ぎます。
しかし、イエスは赤子ではありません。御救いのみわざを成し遂げて、神の御座の右に着座しておられます。
また、いばらの冠をかぶり十字架につけられたイエスの姿を仰ぎます。
しかし、イエスは十字架にはおられません。世の罪を取り除く神の子羊の贖いの血を流したイエスは、墓にはいられたのです。
しかし、イエスは墓にはおられません。死と悪魔に打ち勝って甦られたのです。イエスは、復活の新しいからだで甦り、天に上られました。
私たちの主イエスは、天に上られて神の御座の右に着座されたキリストです。
聖霊のバプテスマを授けるキリストです。
私たちは、キリストの授けられる「生かす御霊」によって生きる、イエスの弟子です。
赤子のイエスの時は過ぎ去りました。
肉体のナザレのイエスの時は過ぎ去りました。
神の子羊イエスはすでに十字架から降ろされています。
イエスは墓にはおられません。甦られたからです。
「聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見て、こう言った。
『見なさい。天が開けて、人の子(キリスト)が神の右に立っておられるのが見えます。』」(使徒7:55,56)
イエスは、神の御座の右に着座しておられるのです。
ステパノは、キリストの栄光を見ていました。
使徒たち、弟子たちもまた、復活のイエスを見、キリストの栄光を見たのです。
私たちも、キリストの栄光を見させていただきましょう。