「わたし(創造主)の思いは、あなたがた(被造物)の思いと異なり、わたしの道(裁き主の罪人を救う道)は、あなたがたの道(救いを求める罪人の願う道)と異なるからだ。
―主の御告げ。―
天が地よりも高いように、わたし(全能者)の道は、あなたがた(人)の道よりも高く、わたしの思い(神の善)は、あなたがたの思い(人の善)よりも高い。」(イザヤ55:8,9)
アメリカの富裕層が住むロサンゼルスの地域で火事が起こりました。
様々の良質な物や金銭に満たされ、多くの財産を持つ人々の所有が焼失しました。
その地域には、純真で忠実な心によって神と契約を結んだ人々も住んでいたと思われます。
世の楽しみの方に心が向く彼らを御自身に取り戻すために、神が取られた方法だったように思います。
肉体を持つ人間は霊的な事を求めつつも、目に見える豊かさに心を向けると霊的な事がおろそかになり、足がすくわれやすい、弱い者です。
お金で解決することを知ってしまうと、神の御前に出て祈ることを忘れてしまいます。ひたむきに神を求めた泥臭い信仰は、スマートなすました信仰になってしまいがちです。
神は、人の物質的な豊かさを見て、よく頑張ったね、とねぎらう神でしょうか。
多くの献金を受けて、金持ちの行為を喜び、金持ちに目を留められる神、また、物質の豊かさを満足される神でしょうか。
金持ちの持ち物は、神が恵まれたから、豊かにされているのです。神への感謝は、いつから失ってしまったのでしょうか。
「わたしは誠実(な心の感謝)を喜ぶが、いけにえ(神にへりくだる心のない献げ物)は喜ばない。
全焼の生贄(罪の償いのしるし)より、むしろ神を知ること(神との交わり)を喜ぶ。」(ホセア6:6)
神は、目に見える財産が失われることではなく、目に見えない財産、すなわち、永遠のいのちが失われることを心配しておられるのです。
神は、人が人生で得る、最も尊いものをご存じです。それは、永遠に残るものです。
人は、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっています。お金を支払うことによって、それを逃れることはできません。
地球が危ないならば、全財産をつぎ込んで火星へ逃げろ、というものではないのです。
全能の神は、天地万物を造られた神です。天体すべては神の作品です。
死後のさばきの後には、闇に存在する漆黒の宇宙にある天体のすべては消滅します。どの星に逃げても、地球と同じ運命なのです。
神は、人が地上で生き延びることではなく、たとい短い生命であっても、永遠のいのちを得て、永遠に生きる新しい霊の人に、新しく創造されることを望んでおられます。
神は、御自分の民を取り戻すためには、どんな方法をも使われます。
人には残酷に思うことだってされます。神は、神の民が永遠のいのちを失うことを望んでおられないからです。
イスラエルの神は、イスラエルの敵国であるアッシリアの都市ニネベが滅ぶことを惜しんで、御自分の民ユダヤ人の預言者ヨナをニネベの町に遣わされました。
ヨナは、ニネベに行きたくありませんでした。なぜ、アッシリアに苦しめられているユダヤ人の預言者ヨナが、イスラエルの民のところではなく、敵国のアッシリアのニネベの町に行って、神の救いの福音を宣べ伝えなければならないのでしょうか。
神は、ニネベの町に神のことばにへりくだって悔い改める人々がいるのを御覧になっておられたのでしょう。
その当時、イスラエルの民は預言者のことばを嘲笑い、預言者たちを殺してしまうような時代でした。イスラエルの国は荒れていたのです。神の民の口に神のことばはありませんでした。
ヨナはニネベの町で、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と神のことばを叫んで回りました。すると、ニネベの人々は神を信じ、王や身分の高い者から低い者まで荒布を着て(神の御前に出て悔い改める姿となって)、ひたすら神にお願いしました。
ニネベの町の人々が、悪の道から立ち返るために努力しているのを御覧になった神は、彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされませんでした。
ヨナの心は複雑でした。ヨナの中には敵国の滅びることを望む密かな期待があったのかもしれません。
ふてくされる預言者ヨナに、ヨナを遣わされた主(イスラエルの神)は仰せられました。
「わたし(創造主である神)は、この大きな町ニネベを惜しまないであろうか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(ヨナ4:11)
神は物質ではなく、いのちを御覧になっておられます。人の目に見えるものではなく、魂を御覧になっておられます。
神にとって、目に見えるものはやがて朽ちて行くものです。あると思っていてもなくなるものです。
人はそれらのものを永久に所有することはできません。死ぬ時に持って行けないのです。肉体の死とともに手離すものばかりです。
永遠に生きておられる神は、人にも永遠のものを受け取って、永遠に生きてほしいと願われます。永遠のものとは永遠に生きる魂です。
永遠に生きる魂とは、永遠のいのちを得させられる魂のことです。
神はそのために、神のひとり子に肉体を造り、罪を贖う神の子羊として、しみも傷もしわもなく罪のない子羊の贖いの血を要求されたのです。
神の子羊の贖いの血によって、世の罪は取り除かれました。
一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定められている罪人が、もし、木にかけられた神の子羊イエス・キリストを仰ぐならば、荒野でモーセが木にかけた青銅の蛇を仰いだイスラエル人たちが毒蛇に噛まれても死ぬ事なく生きたように、生きるのです。
この信仰には、御霊の洗いと信仰の更新とが必要です。信じるのは一度だけではありません。
福音書には、イエスの弟子たちがイエスの栄光を見るたびに、その度ごとに何度もイエスを信じた、とあります。
一度告白した信仰は取り消されません。人が忘れても、神は覚えておられます。神はその告白を有効にしたいと願われるのです。
随分前に観た昔の洋画のことですが、幼い男の子がこちらに向かって走り寄って来る画面になった時、私の中で、ジタバタと慌てふためいて「死んじゃったぁ。死んじゃったぁ。」と泣き叫ぶ御霊の、不思議な体験をしました。
私には悲しみがなく、普通に映画の画面を観ていただけでした。しかし、私のうちにおられる御霊が、「どうしよう。どうしよう。」とうろたえ、あちらこちら行き来して歩き回っているような感覚でした。
私は泣いていないのですが、私の内側は悲しみでいっぱいでした。映画の場面は泣くような場面ではないのに、映画のストーリーとは関係なく、ただ私の目に映っている幼い男の子の魂が滅んでしまったことを嘆き悲しんでおられるのです。
何十年も前の古い映画ですから、この子どもはすでに年老いて他界していました。
この子は、きっと神と契約を結んでいたのだろう。神は、この子に何か神の御計画をお持ちだったのかも知れません。あるいは、神の民のユダヤ人であったのかも知れません。
本当に深い悲しみでした。地に崩れ、引き上げられることのない絶望だったのです。
神は御自分の民を覚えておられます。そして、神の御救いを受けるはずだった人が、信仰の道からそれて、永遠のいのちを失ってしまったことを、悔いることのないはずの神が悔いておられるのです。
神に永遠のいのちを約束された人、すなわち、永遠のいのちを得させられるために神が用意された信仰の道にはいり神に誓った人のためには、神は、その人を取り戻すために、その魂を失わないために、人の思いとは異なる方法を用いてでも、実行に移されるのでしょう。
たとい、自分にとって大事なものを失っても、神のお与えになる永遠のいのちの恵みを知るとき、人は、神をほめたたえることでしょう。
永遠の目ですべてのことを御覧になる神を知ったとき、私たちは黙って手を口に当てるだけです。
「ああ、私はつまらない者です。(天よりも高い神の恵みを悟らず、神につぶやく私は、愚かな者です。あなたから離れて行く私を引き戻してくださった慈しみ深い神に感謝します)
私はただ手を口に当てるばかりです。」(ヨブ40:4)