神は、一度、世界を大水で滅ぼされました。
神を恐れる正しい人ノアは、神に聞き従って、神の設計された箱舟をつくり、箱舟にはいって、大水による世界の滅びから救い出されました。
大水で洗い流された世界のアララテの山の上に、ノアとノアの妻、ノアの三人の息子とその妻たちの八人は立ちました。
悪いことだけに傾いた暴虐の世を怒った神は、汚れた世を一度滅ぼして、八人の人(ノアとノアの家族)から、世界を再スタートさせられました。
神には御計画がありました。
女(エバ)を騙して善悪を知る知識の木の実を食べさせて、最初の人アダムを、神の命令に背かせることに成功した蛇のかしらである悪魔を、女から生まれる「人の子」(神が肉体を造り、人の子として遣わされる神のひとり子)によって踏み砕くことです。
悪魔は、天地万物が造られる以前に、神の相続人である神のひとり子に神が主権を与えられることに不満を持ち、神の御子を妬んで神に反逆した天使長ルシファーの成れの果てです。
神は、神のひとり子に敵対する天使長ルシファーとルシファーに仕える天使たちを、天から追放し、闇に閉じ込められました。
神は、闇に天体を造り、天地万物を創造されました。
神は、神のひとり子とともに土の塵から取られた「人」を造られました。「人」は、神のひとり子のために、神の御子によって造られたのです。
神は陶器師であり、人は神の御手のうちにある土くれです。
神は、土で人のかたちに形造った「人」に鼻から神のいのちの息を吹き入れ、生きるもの(いのちあるもの)とされました。
神は、人を神のことば(神のひとり子)とともにあるものとして造られたのです。神は、愛と喜びと調和と平和に満ちたエデンの園に、人を置かれました。
エデンの園は、闇に造られた宇宙の中のオアシスのような存在でした。そこには、光があり、いのちがあったのです。
しかし、神に背くことを知った「人」は、エデンの園から追放されました。
神のことば(神のひとり子)と一つであった人が、神のことば(神の御子)から外れてしまったからです。
神が御計画しておられる神のひとり子の主権に従うことを憎む天使長ルシファーは、神格を持つ神のひとり子を妬んで神のひとり子に敵対したので、天から追放されました。
神の御子のために造られた「人」は、気づかぬうちに、堕天使たちと同様の罪を犯してしまったのです。人は神のことば(神のひとり子)に従うことをしないで、神に背きました。
神の御子の主権を侮る者は、神の御主権をも侮る者です。なぜならば、神の御子に背くことは、神御自身がお定めになったことに逆らうことだからです。
神は、「人」を悪魔と同じ罪に陥れた悪霊どもと悪魔を、神のひとり子によって滅ぼし、そして、悪魔が奪った神の御子のために造った「人」を、陶器師である神の御手の中で、神のことば(神の御子)とひとつとなる「新しい人」に造り変える御計画をされたのです。
神は、神のひとり子によって悪魔と悪霊どもを滅ぼすことと、また、御子のために、御子とともに天の御国を相続する「新しい人」を、御子によって創造することを定められました。
神は、神のひとり子自身によって、神のひとり子に兄弟姉妹を創造されるのです。神のひとり子は、神の子どもたちの長子となり、新しく創造される神の子どもたちを、神の御子の兄弟姉妹として、神のひとり子とともに、天の御国を相続させられるのです。
神は、悪魔と悪霊どもを永遠に滅ぼす「ゲヘナ(永遠に燃え盛る火の池)」と、悪魔に勝利する神のひとり子のために、新しく創造される神の子どもたちの住まいであり、また、神の子どもたちが神の御子とともに相続する「新しい天と新しい地と」を造られます。
神は、罪に堕ち、闇に囚われた「人」を、罪のない全き光に取り戻すために、天から、贖い主であり、救い主である、「神のひとり子」(キリスト)を遣わされました。
「人の子」となられた神の御子イエス・キリストです。
神はノアとノアの家族から、御救いの御計画を再開されました。
ノアの三人の息子は、セムとハムとヤペテです。人類は、この三人の子孫です。セム族とハム族とヤペテ族に分かれます。
ノアは、洪水から救い出してくださった全能の神を、「セムの神」と呼びました。
神は、このセム族の中から、神を恐れる正しい人「アブラム」を選び、アブラムと契約を結ばれました。
神は、アブラムの子孫に、キリスト(神御自身の御子である神のひとり子)を生むことを定められたのです。
神はアブラムと契約を結ぶと、アブラムを「アブラハム(高貴な父)」という名前で呼ばれました。そして、神と契約を持つ者のしるしとして、割礼を命じられました。
それで、アブラハムとアブラハムのうちにある男子はみな、割礼を受けました。
割礼は、アブラハムの契約のうちにはいる者のしるしでした。
神は、アブラハムの妻サライを「サラ(王女)」という名前で呼び、キリストを生む高貴な父であるアブラハムと、王女(世界を治める王家の女)であるサラとの間に、キリストの先祖となる「イサク」を生みました。
そして、神は、イサクに「ヤコブ(キリストのからだのかかと)」を生みました。
ヤコブは、神と人と戦って勝利し、父イサクに受け継がれたアブラハムの契約と祝福とを相続しました。
神は、ヤコブに現われて、カナンの地を与えることと、アブラハムの契約と祝福は、ヤコブに相続させることとを仰せられました。
神は、アブラハムの契約の跡取りであるヤコブを、「イスラエル(神と人と戦って勝利した者)」という名前で呼ばれました。
神がアブラハムに、あなたの子孫は四百年の間、外国の地で奴隷となると仰せられたことばは、ヤコブの上に成就しました。
ヤコブの子孫は、四百年の間に奴隷の家エジプトの地で増え広がり、一つの民族(ユダヤ民族〈ヤコブの十二人の息子を族長とするユダヤ十二部族の民〉)となりました。
神は、神が荒野に取り分けて置いたレビ族の子モーセをエジプトに遣わして、ヤコブの子孫(イスラエル)を救い出して、荒野に導き入れられました。
神は、荒野で、イスラエルと契約を結ばれました。アブラハムの子孫イスラエルは、神の祭司の国民として、神に仕える民族に任命されたのです。
イスラエルの民は、みな口をそろえて、神に誓いました。
「私たちは主(全能の神、先祖の神アブラハム、イサク、ヤコブの神、イスラエルの神、主)が仰せられたことを、みな行ないます。」(出エジプト19:8)
神は、契約どおりイスラエルに、アブラハムに約束されたカナンの地をお与えになりました。
イスラエルは、神の命令どおり、カナンの地に住む住民を聖絶し、先祖の地に「イスラエル王国」を建国しました。カナンの地の住民の罪が満ちたので、神は、御自分の民イスラエルに聖絶を命じられたのでした。
神は、イスラエル王国に、羊飼いであったユダ族のダビデの王座を設けられました。そして、ダビデ王に誓われました。
ダビデの子にとこしえに堅く立つ国を与え、その王座はとこしえまでも堅く立つ、と仰せられたのでした。
それは、高貴な父(アブラハム)と王女(サラ)の子孫であるイスラエルから生まれるキリスト(神のひとり子)のことを仰せられたのでした。
神は、アブラハムの跡取りであるヤコブの子孫ユダヤ人から、「人の子」(人となられた神の御子)を生まれなさいました。
神の御子イエスは、神がダビデ王に誓われたとおり、ダビデの町ベツレヘムで、ダビデの子として、お生まれになりました。
神の御子イエスは、父なる神に聞き従い、十字架の死まで従われました。十字架で流された神の子羊イエスの血は、世の罪を取り除く贖いの血です。
神は、贖い主イエス・キリストの血によって、闇に囚われた罪人の罪を赦し、また、キリストを死から甦らせた聖霊によって、新しい人を創造されます。
陶器師であられる父なる神は、御子を遣わして人の罪を贖い、また、死から甦らせる聖霊によって、新しい人を創造されます。
土で造られた肉の人は、キリストとともに十字架につき、罪を犯す肉に死んで、そして、キリストを信じてキリストの贖いの血によって罪の呪いから解かれた人は、聖霊によって死から甦り、御霊の新しい創造によって、肉の性質から御霊の性質に造り変えられて、永遠のいのちを得させられる神の子どもとされます。
永遠のいのちを得させられる神の御計画にはドラマがあります。
神の用意された御救いは、ノアの息子のセムの子孫であるアブラハムの契約の成就によるものです。
アブラハムの契約の跡取りであるイスラエルに、高貴な父〈アブラハム〉と王家の娘〈サラ〉の血によって生まれたダビデ王、そのダビデ王の子孫として、救い主イエス・キリストは誕生しました。
神は、創世の初めから、神のひとり子による、御救いを定めておられたのです。
救世主イエス・キリストは、「神のひとり子」であり、アブラハムの子孫のダビデ王に誓われたダビデの王座にとこしえに堅く立つ「イスラエルの王」なのです。
私たちの救い主、私たちが「主」と呼んでいるイエス・キリストは、アブラハムの契約の成就として、天から遣わされた「人の子」なのです。
私たちの救いは、アブラハムの契約の上にあります。
アブラハムの契約の上には、イスラエルの契約があり、ダビデの契約があり、ユダヤ人の使徒たちの契約があり、聖霊のバプテスマを授けるキリストとの契約によって、一つとなるのです。
アブラハムの契約を土台とした御救いの上に、イエス・キリストの王座があります。
アブラハムの契約と、イスラエルの契約と、ダビデの契約と、詩篇と預言者のことばとがあり、使徒たちの契約と、神の教会を誕生させた聖霊の上に、キリストの王座が堅く立ちます。
私たちの信仰は、これらの土台の上に立てられています。
私たちは、アブラハムに与えられた神の契約と、その契約を信じる信仰により、聖書に書かれたことの成就である神のひとり子イエス・キリストによって、救われるのです。