ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

「ユダヤ人の時」の始まるしるし

 

 世界中にイエス・キリストの福音が宣べ伝えられ、多くの異邦人たちが救いの門にはいっているのに、キリストを生んだユダヤ民族の中で神の御子イエス・キリストを信じる人は1%ほどだ、と言われています。

 

 「救いはユダヤ人から出る。」とイエスは言われました。

 イエスは、全能の神であられるイスラエルの神のひとり子であり、イスラエルを救うために、父なる神(イスラエルの神)に遣わされたキリストでした。

 救いはユダヤ人から出ると言われるイエスご自身が、天の神のみもとから来られた「人の子」、すなわち、キリストの油を注がれた「罪の贖いの神の子羊」であり、罪の贖いのわざを成し遂げて「新しい人」(聖霊によって死から復活し永遠に生きる神の子ども、すなわち、第二のアダム)に創造されると、天に上り神の御座の前に立って、御座におられる神から、聖霊のバプテスマを授ける権威を受けられる「キリスト」なのです。

 

 律法の奴隷となったユダヤ人たちは、イエスの語る生ける神のことばを信じませんでした。彼らにとって神のことばは、聖書に書かれた文字のことばなのです。彼らは、生ける神を知りません。霊なる神との交わりがないのです。

 

 ユダヤ人たちは、神が遣わされた約束のキリスト(ナザレのイエス)を信じず、イエスを罪に定め、十字架につけて殺しました。

 ユダヤ人たちが信じている律法と預言書に書かれているキリスト、すなわち、ユダヤ人たちが待ち望んでいるメシアは、彼らが十字架につけたナザレのイエスのことでした。

 イスラエルの神がユダヤ民族にお与えになった聖書には、木にかけられる神の子羊イエス・キリストのことが書かれていたのです。

 聖書のみことばは、ナザレのイエスにおいて、ことごとく成就するのです。

 

 神の遣わされたキリスト、神のひとり子である方(ナザレのイエス)を信じなかったユダヤ人たちは、神の御救いの中に入っていません。

 神は、不信仰で不従順なユダヤ人たちを怒り、彼らからキリストを取り上げて、契約の外にいた異邦人に神の御子イエス・キリストをお現わしになり、異邦人を天の御国に招かれたのです。

 

 天の御国に招かれていた神の祭司の国民のユダヤ民族が捨てられて、神は、無割礼の(契約のしるしのない)民と、神の御子イエス・キリストの御救いの約束をされました。

 

 「彼ら(ユダヤ人)が(イエス・キリストに)つまずいたのは倒れるためでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反(神の御子イエスを信じない不信仰とキリストを遣わされた神への不従順)によって、救いが異邦人に及んだのです。

 それは、イスラエルに妬みを起こさせるためです。(約束のなかった異邦人の方が先に、御救いの喜びの中にはいっています。神に仕えるために、律法の下に生きているユダヤ人は奴隷のままで、ユダヤ人から出た神の御子イエス・キリストを信じる異邦人が先に自由を味わっているのです。)

 もし彼らの違反(イエス・キリストを信じないユダヤ人の不信仰)が世界の富(救世主イエス・キリストの福音が世界中の異邦人に向けて発信される世界宣教の恵み)となり、彼らの失敗(ユダヤ人たちが神の遣わされた神の御子イエス・キリストを憎むこと)が異邦人の富(神の愛が異邦人に向けられて異邦人が神に立ち返り、御救い〈罪の赦しと永遠のいのち〉を受けること)となるのなら、彼らの完成(ユダヤ人たちが我に返って神の御子イエス・キリストを受け入れて救われること)は、それ以上の、どんなにかすばらしいもの(メシアの到来とキリストが世界を治められる千年王国)を、もたらすことでしょう。」(ローマ11:11,12)

 

 パウロは言います。

 「もし彼らの捨てられること(イスラエルに遣わされた神の御子イエス・キリストを信じることのできないユダヤ人の心に覆いがかかり、キリストを悟ることができないまま闇に閉じ込めておられること)が世界の和解である(神に御救いの契約を受けているイスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない異邦人がキリストによって神を知り神と和解することであり、神との平和である)としたら、彼ら(ユダヤ人)の受け入れられること(十字架につけたイエスがキリストであることに目が開かれて、ユダヤ民族が悔い改めて神の御救いのうちにはいること)は、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。(ユダヤ民族の悔い改めと御救いの完成が、地上にイスラエルの王であるキリストを迎え、ユダヤ人の死者たち、また、キリスト者の死者たちが墓から甦り、武器も争いもない平和な千年王国を迎えるのです。こうして、聖書に書かれていることはことごとく成就されます。ユダヤ民族の御救いの完成が、エデンの園を回復させるのです)」(ローマ11:15)

 

 イエス・キリストを信じる1%のユダヤ人を大きく二つに分けることができます。

 メシヤニック・ジューと、ユダヤ人ビリーバーです。

 

 神がユダヤ民族にお与えになった神の民のしるしである割礼や、神の民が守るべき律法(モーセの律法)を大切に受け継ぎ、ユダヤ民族としてのアイデンティティーを持ちながら、イエス・キリストを信じるユダヤ人たちがいます。

 彼らは、アブラハムの契約を受け継ぐイスラエル人として歩みます。

 彼らは、「メシヤニック・ジュー」と呼ばれます。彼らはコングリゲーションに集い、ユダヤの祭りも守ります。彼らは、自分たちをクリスチャンのひとりと考えることはありません。神の選びの民、神の祭司の国民、契約の民として生きているのです。

 

 メシヤニック・ジューは異邦人のクリスチャンとの交流を持ちますが、礼拝スタイルはキリスト教会とは異なります。

 ユダヤ教の土台の上に立つ、神の教会です。

 キリストを信じるユダヤ教徒は、メシアニック・ジューのコングリゲーションの集いにはいることでしょう。

 

 一方、ユダヤ人であっても宗教的でない人々もいます。世俗派ユダヤ人と言われる人々です。

 彼らは、ユダヤ教徒のように律法の下にいるのではなく、異邦人のように過ごしています。ユダヤ人も異邦人も同じであり、ユダヤ人は多くの民族の中にある一つの民族ユダヤ民族に属していると考え、特別なものという考えはないようです。選民意識にとらわれていません。

 

 しかし、異邦人ではないので、クリスチャンという呼び方ではなく、ナザレのイエスを主キリストとして信じているユダヤ人という位置づけで、「ユダヤ人ビリーバー」と呼ばれています。

 宗教的ではないユダヤ人、すなわち、世俗派ユダヤ人たちは、キリストを信じると、ユダヤ人ビリーバーたちの教会にはいるのでしょう。

 異邦人のキリスト教会の中にはいる人もいるでしょう。

 

 さて、異邦人の時の完成とともに、天に引き上げられるのは、ユダヤ人ビリーバーたちです。彼らは、ユダヤ人の時には、すでに完成しているのです。

 

 「人の子(キリスト)のしるしが天に現われます。(空中再臨のキリストは、賢い娘たち〈生きたまま携挙されるユダヤ人ビリーバーやクリスチャンや神道など生ける神に忠実であった回心した人たち〉を迎えるために稲妻のように来られます)

 すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子の大能と輝かしい栄光を帯びて雲の乗って来るのを見るのです。(地上に残された人たちは霊の目によってキリストの栄光を見ることでしょう。イエスが墓から甦られたとき、キリストの復活の姿を見ることができたのは、イエスの弟子たちです。ほかのユダヤ人たちの肉の目には見ることができませんでした)

 人の子(キリスト)は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(異邦人の完成の時には、殉教者たちが墓から甦って復活のからだで天に引き上げられます。そして、携挙される人たちが生きたまま一瞬で一挙に引き上げられます)

 いちじくの木から、たとえを学びなさい。(ユダヤ人ビリーバーは、メシヤニック・ジューに、異邦人の時の完成を知らせるための存在と言えます)枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。(ユダヤ人の時、ふたりの証人とともに、ユダヤ人の救いのために働くメシヤニック・ジューたちは、イエス・キリストを信じて洗礼を受けるユダヤ人ビリーバーの数が増えるのを見て、異邦人の時の完成の時が迫っており、ユダヤ人の時が近づいていることを知ります。また、ユダヤ人ビリーバーたちが世からいなくなる(殉教したり、携挙したりして天に引き上げられる〉と、ユダヤ人の時〈ふたりの証人の働きの時〉が近づいているのを悟るのです。(この後、七年間の患難時代を迎えるのです)

 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがた(ユダヤ民族)は、人の子(メシア)が戸口まで近づいていると知りなさい。(メシアが来て、神の民を集めてイスラエル王国を建てる「千年王国」の夜明けが近づいているのです)」(マタイ24:31-33)

 

 神は、ユダヤ人ビリーバーの存在によって、すべてのユダヤ人が救われるという「ユダヤ人の時」が近づいたことを知らせられるのでしょう。

 メシアニック・ジューは時を悟り、奇蹟と不思議としるしを行なう「ふたりの証人」を神の人として受け入れ、千二百六十日の間預言するふたりの証人とともにユダヤ教徒や世俗派ユダヤ人たちを救う働きをするための備えをすることでしょう。