人と人との間には、永遠の愛は不可能です。
人には一度死ぬことが定められているからです。
また、伴侶の死を迎えた場合、亡くなった伴侶との間の契約は解かれます。そして、新しい伴侶を迎える自由を得るのです。
では、永遠に生きられる神と人との間の契約はどうでしょうか。人には寿命があって、必ず死んでしまいます。神は、契約を結んだ人との契約を解除されて、新しい人を見出されるのでしょうか。
いいえ、神が契約を結ばれたのは、肉体の人ではなくて、肉体の中にある魂と結ばれたのです。肉体は朽ちて滅んでも、魂は永遠に生き続けます。魂は、地上に留まる間、肉体を着ていただけです。魂は、肉体を脱ぐと裸になります。
神は、裸の魂に、新しいからだを用意しておられます。それは肉体のように、時間や空間に拘束される不自由なからだではありません。
過去も現在も未来もなく、一瞬にして行きたい所に移動でき、意識がそのまま実現する、魂の新しいからだです。食べることも飲むこともできます。しかし、肉のからだとは異なり、病むことも老いることも朽ちることもなく、飲んだり食べたりしなくても永遠に生きる霊のからだです。
聖書には、天の御国に迎え入れられる人が「裸」であることは「恥」であると書かれています。
「わたし(神)はあなたに忠告する。
あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。」(黙示録3:18)
肉体を脱いだ魂が裸であることは、神の国にふさわしくないのです。
神の国にはいる者は、神がお与えになる白い衣(贖われた者に用意されている御霊の与える復活のからだ)を着なければならないのです。また、黙示録3:18の場合の「白い衣」は、殉教者に与えられる御霊の信仰のことです。
殉教の死は、単なる肉体の死ではありません。多くの人々の救いのために流される血です。神の国のために自分の命を神にささげる殉教です。犠牲を払う尊い血です。
血を流しても、自分自身のうちに御霊の信仰がなければ、その人の魂は裸のままです。
イエスは、天の御国のたとえを話されました。
王(父なる神)は、王子(神のひとり子イエス・キリスト)のために結婚の披露宴を設けられます。(神は、地上に、子羊と子羊の花嫁との結婚の披露宴〈千年王国〉を設けられます。神は、多くの人を千年王国に招いておられました。神が御救いの契約を結んだユダヤ人やキリスト者たちです)
神は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたち(御使いたち)を遣わしましたが、お客たちは自分のことに気が取られており、来たがらないのです。彼らは、自分の所有物やこの世の成功などに心が向いており、御霊の声に鈍感で、御使いの導く信仰の道を憎みました。神のことばは、彼らにとって、自分の行きたい道を阻むうるさいものだったのです。
神は怒られました。
神は御使いに仰せられます。
「宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。(御霊の信仰を持たない者は、ユダヤ人であってもキリスト者であっても、天の御国にふさわしいものではありません)
だから、大通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな宴会に招きなさい。」(マタイ22:8,9)
御使いたちは、ユダヤ教の会堂の外にいる人やキリスト教の教会の外にいる人たち、ほかの宗教の中にいる人や無宗教の人などを招いて、神の御救いの福音(ふたりの証人と十四万四千人のユダヤ人の宣教する神のことば)を聞いて集まって来た者たちをみな集めたので、宴会場(千年王国)は人でいっぱいになりました。
神は、千年王国(草木も喜ぶ嬉しうれしの弥勒の世)に集まった人たちを見ようとして入って来られると、そこに婚礼の礼服(イスラエルの王をほめたたえる、御霊の信仰)を着ていない者がひとりいました。
そこで、神は、婚礼の礼服を着ていない者にいわれました。「あなたは、どうして礼服(罪を悔い改め、イエス・キリストを主と仰ぎ、神と神の御子に仕える信仰〈御霊の与えられる信仰〉)を着ないで、ここにはいって来たのですか。」しかし、彼は黙っていました。(彼は永遠のいのちを得させられることに関心を持っただけで、神の御子イエス・キリストを敬う心も、信じる信仰もなかったのです)
そこで、神は、御使いたちに仰せられます。
「あれ(婚礼の礼服を着ていない者〈御霊の信仰のない者〉)の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。(神の恵みによって招かれながら、ただ自分のいのちを求めるだけで、信仰もなく、招いてくださった神にも神の御子にも感謝のない邪な者を、神は、いのちの木のある都から追放して、地の四方にある諸国、ゴグとマゴグ(火で焼かれるために残してある滅びの国)に追いやられます)」(マタイ22:13)
天の御国は、永遠のいのちを得させられる人たちのはいるところです。そして、御霊の与える復活の新しいからだを着た「新しい創造の人」たちの住まう国です。
第二のアダムの初穂であるイエス・キリストは、十字架で死んで、聖霊の力により復活のからだを着て死から甦られました。
人の子イエスは、復活のからだの新しい人となって、天に上り、父なる神から、「キリストの権威」(聖霊のバプテスマを授ける権威)を受けられました。
御救いのみわざを成し遂げたキリスト・イエスは、御霊によって第二のアダムを創造されます。聖霊のバプテスマを授けるキリストをかしらとする、永遠に生きるキリストのからだ(新しく創造される人、すなわち第二のアダム)です。
パウロは言います。
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
そのように(キリストが教会を愛されたように)、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
だれも自分の身を憎んだものはいません。かえって、これを(慈しみ)養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです(天の御国にはいる七つの御霊の教会は、キリストのからだです。キリストはキリストのからだを救うためにご自身をささげられました)
私たちはキリストのからだの部分だからです。
『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』
この奥義(結婚に対する神の定め。「ふたりは一心同体となる」すなわち、キリストとキリストのからだである御霊の創造される新しい人とは、新しいひとりの人〈第二のアダム〉とされる)は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペソ5:25,28-32)
死から復活された新しい人(第二のアダムのキリスト)と一体となる人たちは、御霊による新しい創造を受けて、復活のからだを得る人でなければなりません。
天の御国にはいる人たちは、裸の魂ではなく、御霊の与える「白い衣〈霊のからだ〉」を着る魂なのです。また、復活のからだを着る魂です。
天の御国にはいる魂が、裸であるはずがありません。必ず、御霊の与える衣を着ているのです。
永遠に生きる第二のアダムのキリストのからだは、永遠のいのちを得て霊のからだを着る魂たちでなければなりません。
裸の魂(復活のからだのない、死から復活できない魂)の滅びの子であってはならないのです。肉体を脱いだ裸の魂は、必ず、御霊の与える、新しい霊のからだを着なければなりません。
御霊の与える衣を着た魂が、永遠に生きるキリストのからだであり、天の御国にはいる新しい人(御霊によって新しく造り変えられた第二のアダム)なのです。
復活のキリストのからだは、七つの御霊の教会によって完成します。
かしらであるキリストのからだと一心同体となる七つの御霊の教会の誓った、永遠の愛は成就します。彼らの愛は永遠に残る愛です。
永遠の愛を誓っても、永遠に残ることのない愛(信仰の脱落者)もあります。
しかし、信仰の勝利者である七つの御霊の教会の愛は、永遠に残るのです。