「主は、憐れみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。
主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。(神は、私たちが肉なる者であることを心得ておられる。霊の存在である堕天使(悪魔や悪霊ども)と同じようには扱われない)
天が地上はるかに高いように、(神の)御恵みは、主を恐れる者(「主」を主と仰ぐ者)の上に大きい。
東が西から遠く離れているように、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(私たちのうちから背きの罪を取り除き、主を恐れる私たちと私たちの背きの罪とを、とこしえに引き離される)
父がその子(父の身から出た子)を憐れむように、主は、御自分を恐れる者(主権を神御自身に認めてひれ伏す者)をあわれまれる。
主は、私たちの成り立ち(神が土の塵を取って形造り、神のいのちの息を吹き入れて生きものとした、という私たちの成り立ち)を知り、私たちが塵にすぎないことを心に留めておられる。」(詩篇103:8-14)
私たち人間は、神が土の塵から造られた神の被造物であると、神のことばによって書かれた聖書は言います。
聖書に神の権威を認めない人、また、神の存在を否定する人にとっては、おとぎ話のような話です。しかし、人間は死ぬと、土に還ります。
ユダヤ民族に聖書のことばをお与えになった神は、天地万物を造られた全知全能の神であられ、父なる神、子なる神、聖霊の三位一体の神です。
ユダヤ民族は、父祖アブラハムから相続した神の契約と祝福とを受け継いだ「アブラハムの子孫」であり、神はユダヤ民族に神のことばをゆだねられました。
それが、聖書です。聖書には、神について、悪魔について、また、天地万物の創造と人類の起源と、罪と罪の赦しと新しい創造とが書かれています。
神と神のひとり子(神のことば)はともに、最初の人アダムを造られました。塵から取られ人の形に造られた土の器に、神のいのちの息を吹き入れて生きものとされたのです。
人は、父なる神のいのちの息を吹き入れられて生きるものとなりました。人は、神のことば(神のひとり子)とともに、エデンの園を管理する者でした。
しかし、人は創造主である神のことば(神のひとり子)に背き、エデンの園の管理者を失格しました。失格した管理者は、エデンの園から追放されました。
神のことばから外れた人は、自分自身で考え知識を求めて、自分の知恵と知識を頼みとする者となってしまったからです。管理者が神のことばを外れると、神の御心どおりに管理できなくなってしまいました。
神のことばが「主」であったエデンの園にあって、人はもうひとりの主人となってしまったのです。
「わたしはある」と名乗られる神のことばのうちにいるときに、人は神のいのちの中に憩っていました。しかし、人は、神のことばから外れると、自分自身の労苦によって生きなければならなくなったのです。
神は、御子のために造った人が、土の性質の愚かさゆえに、労苦して苦しむことを望んでおられるでしょうか。
神は、人間の思いをはるかに超えた、赦しと愛と希望に満ちた方です。
父なる神は、ひとり子を悲しませた「愚かな人」をどうされたのでしょうか。
土の塵から取られた人です。もとは、値打ちの無いものではありませんか。ダイヤや宝石に輝くものではないのです。
神のひとり子は、心から人を愛し、喜んでいたのです。
神も、ひとり子をこれほど楽しませ、喜ばせてくれる「人」を、惜しまれました。神は、ひとり子を喜ばせたいと思われました。
神は、神のひとり子を妬み神に敵対する悪魔について行った「人」の罪を赦すことを決められました。しかし、相手は悪魔です。神が赦しても、悪魔は決して手放しません。
悪魔の縄目から救い出すためには、悪魔を倒す必要があります。強いものを縛り上げなければ、闇に連れ去られた人を取り戻すことはできません。
神のことばから外れた人は光を失って、闇に閉じ込められました。人に罪がなければ、悪魔の手の中に入ることはありませんでした。
神は、闇に、「救い主」を遣わすことを定められました。
神は、全き光を、滅びの闇に遣わされます。神の御使いではありません。闇の中の強いものに打ち勝つのは、全き光の中の強いものなのです。悪魔に打ち勝つのは、神格を持つ神のひとり子だけです。
闇に遣わすために、神は、ひとり子に肉体を造り、罪人と同じ姿にされました。
神のひとり子は、ご自分のことのように愛する「人」を、滅びの闇から救い出すために、ご自身が土の人と同じ姿となられたのです。
神のひとり子は神の御子の栄光の御姿を捨てて、神のあり方を捨てることはできないとは考えないで、愛する「人」を取り戻すために、卑しい姿となられました。
神のひとり子は、神のことば(聖書)をゆだねた民(ユダヤ民族)のところに遣わされました。聖書を知る民は、昔から、キリストが来られることは聞かされていました。しかし、彼らは、神のひとり子イエスをそのキリストであると信じないで、卑しめました。
ほかの民族と聖別して、御救いの契約を神から与えられていたユダヤ人たちが、神のひとり子を迫害し、殺してしまいました。
神のひとり子は知っておられました。イザヤ53章に預言されているではありませんか。キリストの苦しみも悲しみも痛みも、聖書のことばどおりに、神の御子ナザレのイエスの上に成就したのです。
神は、子羊イエスの贖いの血によって、人の罪を赦したことを、世と悪魔に宣言されました。悪魔はそれを否定することはできません。神は、犠牲を払って、闇に捕われた魂をひとり子の血で買い戻されたのです。
神のひとり子のみわざを帳消しにはできません。悪魔には、神に勝利する手立てはないのです。しかし、罪人たちに神の御子イエス・キリストの福音を信じさせない事で、罪人の罪の赦しを無効とし、闇に留めることはできます。
神のひとり子は、イスラエルを救うために来られたのに、イスラエルに捨てられました。
神のことば(神のひとり子)を信じず、神のことば(聖書の律法〈モーセの命令〉)に背いて、神のひとり子を憎み神の御子に敵対する悪魔に支配されているユダヤ人たちを、神のひとり子イエス・キリストは、心を痛めながらも彼らを愛しておられました。
神の御子イエスは、ユダヤ人たちにつけられた十字架の上で、父なる神に言われました。
「父よ、彼ら(あなたの民であるユダヤ人たち)をお赦しください。彼らは何をしているのか(先祖が語り、イスラエルが待ち望んできた約束のキリストを、みずから十字架につけて殺そうとしていることが)、わからずにいるのです。(神の御子イエス・キリストを十字架につけたユダヤ人たちは、自分たちのしていることがわからないのです)」(ルカ23:34)
神の御子イエス・キリストは、人の裏切りを思わず、人を騙した悪魔を踏み砕いて、悪魔の手から、捕らえられた魂を救い出すことを決められたのです。
悪魔とともにあるのは死と滅びです。神のひとり子とともにあるのはいのちと平安です。
人を死と滅びから救い出し、いのちと平安を得させようと、神のひとり子は、闇に下り、死の国にはいり、悪魔を踏み砕かれました。
裏切る人を赦すことだけでも、大きな愛を感じます。
しかし、神は、裏切る人を赦すために、背いた人の身代わりとして、御自身のひとり子を罰せられました。罰せられるべきは、裏切る人の方であるべきではないですか。
しかし、神は、加害者である人を救うために、被害者であるわが子を差し出されたのです。そして、加害者である人のかわりに、わが子を罰せられました。
人は、世の不条理を体験し、理不尽に悩みます。
神はおられるのか、と言って神を恨みます。
しかし、私たちが罪を犯したことを自覚する前に、神は、神のひとり子を罰せられたのです。
イエス・キリストほど、理不尽な人生を歩んだ人はいないでしょう。
神の御子イエスは、救いをもたらすために遣わされたイスラエルで、理由もなく憎まれ、苦しめられました。
そして、イスラエルの罪を贖うために犠牲を払ってイスラエルの罪の身代わりとなり、イスラエルを救うためにご自分の血を流して、犠牲を払って御救いを与えるほどに愛したユダヤ人たちから捨てられたのです。
神は、イスラエルの罪を赦し、罪の呪いである死と滅びから救い出すために、神のひとり子をイスラエルの身代わりに罰せられました。
神のひとり子イエス・キリストは、イスラエルの罪の赦しのためにイスラエルの神(父なる神)が遣わされた子羊イエスを好き勝手にしたイスラエルの罪を赦されました。
イエスは、自分が処刑される十字架の上で、「父よ、彼ら(ユダヤ人たち)をお赦し下さい。」と、ご自分を殺す者(ユダヤ人)たちの赦しを、父なる神に執り成されました。
聖霊は、聖霊のバプテスマを授ける権威を持つ神の御子イエス・キリストの御名によって、父なる神に遣わされて、卑しい土の器に住まわってくださいます。
神は、神の最も大事なもの、神格を持つ神のひとり子と聖霊とを、土に還るだけの価値のない人間にお与えくださいました。
神は、永遠に価値のある栄光の御子と聖霊とを、罪がわからず右も左もわきまえない愚かな罪人たちを贖い、永遠のいのちを得させるために、お与えくださったのです。
「キリスト(の御霊)が、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
また、愛に根ざし(キリストの愛を拠り所とし)、愛に基礎を置いている(信仰の根底にキリストへの愛を持ち、キリストの愛に信仰の土台を置いている)あなたがたが、すべての聖徒とともに、(神の愛の)その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛(人間には成し得ない、天よりも高く海よりも深い神の愛)を知ることができますように。」(エペソ3:17-19)