「ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼(イエスの弟子たちを迫害する、熱心なユダヤ教徒のサウロ)を巡り照らした。
彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞いた。
彼が、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、お答えがあった。
『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(わたしは、あなた〈サウロ〉が迫害しているイエスの弟子たちの「主」であるイエス・キリストです)
立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。』
(サウロと)同行していた人たちは、(サウロに語るイエスの)声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで、(同行していた)人々は彼(サウロ)の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。」(使徒9:3-8)
ベニヤミン族のサウロは、ユダヤ教に熱心なパリサイ人です。同族の中でもユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心で、ナザレのイエスの弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えていました。
サウロは教会を荒らし、ユダヤ人たちが十字架につけたナザレのイエス(主イエス・キリスト)の弟子たちの家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れていました。
サウロは、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼み、イエス・キリストの御名を信じる者たちを、男でも女でも見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るために、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光に照らされて、目が見えなくなりました。
サウロとともにダマスコの信者たちをエルサレムに引いて来るために、同行するユダヤ教徒たちもいました。
サウロと同行している人たちは、突然、サウロが地に倒れるのを見、また、サウロが聞いた主の声を聞いたのです。
彼らは、ユダヤ教徒です。ナザレ派(イエスの教え)は異端だと信じていました。イエスを十字架につけた後に、イエスの弟子たちがとんでもない噂を流したことに、敵意を持っていました。
なんと、十字架で血を流して死んだはずのナザレのイエスが、墓から甦ったと言うではありませんか。
復活のからだのイエスは、イエスの弟子たちには見えましたが、信仰の無い人にイエスは姿を現わされなかったので、ユダヤ人たちは復活のイエスの噂は、弟子たちの語る嘘だと信じていました。
ユダヤ教徒たちは、ナザレのイエスはキリストであるということをユダヤ人たちに信じさせようと、イエスの弟子たちが嘘を言っていると思っていました。
イエスがキリストであるならば、ユダヤ人たちはキリストを殺してしまったことになり、祭司たちの面目が立たないどころか、ユダヤ人たちに暴動が起こるかも知れません。
これ以上、ナザレのイエスの名によって、ユダヤ人の社会を混乱させてはなりません。あの騙す男(ナザレのイエス)を処刑して混乱は落ち着くと思っていたのが、ますます混乱するばかりです。イエスの弟子たちの口を封じなければなりません。
サウロと同行者たちは、主イエスの弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えていました。
彼らは、ダマスコの近くまで来ました。すると、突然、サウロは倒れ、また、同行者たちもともに、声(音)を聞いたのです。
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」声の主を知ろうと辺りを見回しても、だれもいません。
サウロは言いました。
「主よ。あなたはどなたですか。」
サウロは、天からの光で目が見えなくなっていました。しかし、同行者たちには、天からの光が見えなかったようで、何も起こりませんでした。
天からの光に巡り照らされたサウロは、御使いが現われたのか、と思ったのかもしれません。
おそらく、イエスの語られた内容は、サウロだけが聞き取ることができたのでしょう。同行者たちには、言葉としてではなく、音声として聞こえたようです。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
視力を失ったサウロは、同行者たちに手を引かれて、ダマスコの町にはいりました。
サウロは、アナニヤという者が自分のところに来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになる幻を見ました。
律法に厳格なパリサイ人のサウロには、驚きの連続です。現実に起こっていることには思われません。しかし、視力がなくなったサウロ自身の目が現実であることを証しています。
サウロを照らした天の光の主は、ユダヤ人たちが十字架につけて殺したナザレのイエスだったのでしょうか。ナザレのイエスは生きているのですか。イエスの弟子たちの証言は偽りではなかったのでしょうか。
サウロが信じていた祭司たちの教えは間違っていたのでしょうか。イエスは「神の子」と自称して神を冒瀆し神を汚す者、また、ユダヤ人の中に弟子をつくって、律法をくつがえそうと扇動する違反者、聖なるイスラエルから取り除かなければならない、死刑に値する罪人ではなかったのですか。
光を失った暗闇の中で、サウロは自分自身の行ないを顧みて、茫然としていたのかもしれません。
律法の奴隷であったサウロは、律法の中に答えを見つけるのではなく、幻に見たアナニヤを待っていたことでしょう。
イエスの弟子たちを捕縛するためにダマスコの地に来たサウロは、視力とともに、信じていた真理(ユダヤ会堂の教え)を失っていました。
旧約聖書に書かれている不思議な出来事(天からの光、天からの声、幻)を、みずからが体験しているのです。律法では説明できない不思議な経験を、律法の奴隷のサウロはみずから体験していたのです。自分自身が体験していることを、サウロは否定することができません。
そして、自分の身に何事もなければ、捕縛するはずだったイエスの弟子のアナニヤを、サウロは、真理を知る人として捉え、自分の視力の回復のために、彼が来るのを待っているのです。
アナニヤは来て、サウロの上に手を置いて言いました。
「『兄弟サウロ。(アナニヤは、主にしたがい、サウロを、イエス・キリストの御名を呼ぶ者たちを苦しめるユダヤ教徒ではなく、イエス・キリストにある兄弟として迎え、兄弟と呼びました)
あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私(アナニヤ)を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。』
するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。(神の霊によって、サウロの目を塞いでいた文字の律法の呪いと、霊的な事を否定する不信仰は取り除かれました)
彼(サウロ)は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。(サウロは、回心しました。神の遣わされたキリストを信じました。サウロの「主」は、律法ではなく、ユダヤ会堂でもなく、祭司たちの教えでもありません。天からの光によってお現われくださったナザレのイエス、すなわち、死から復活した神の御子イエス・キリストを「わが主」と呼ぶ者とされたのです。サウロは、神のみわざによって、聖霊に満たされる者となったのです)
サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。(イエスの弟子たちを捕縛するためにダマスコの諸会堂あての手紙を持って来たサウロは、自分を異邦人の使徒として召してくださったイエスに出会い、なんと、諸会堂で、イエスは神の御子であると大胆に証する者となりました。ユダヤ人たちはうろたえ、サウロを殺す相談をしたのです)」(使徒9:17-20)
ナザレのイエスの弟子たちを捕縛するために、大祭司にダマスコの諸会堂あての手紙を書いてもらい、ダマスコに向かったサウロは、途中で、復活のイエスに捕えられました。
イエスは、イエスの弟子たちを捕縛するサウロを恐れるアナニヤに言われました。
「行きなさい。あの人(サウロ)はわたしの名(神の御子イエス・キリストの御名)を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
彼(厳格なユダヤ教徒パリサイ人のサウロ)がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないか(救い主である神の御子イエス・キリストの御名を宣べ伝えることに伴う苦難)を、わたしは彼に示すつもりです。」(使徒9:15、16)
サウロは、イエスの弟子となった後にはパウロと呼ばれています。
パウロは、ユダヤ教に熱心であった時以上に、熱心に命をかけて、神の御子イエス・キリストの福音を伝道する者に変えられました。
新約聖書の書簡の多くは、パウロによって書かれています。
日本人から世界を救う人(血統的にはユダヤ人の血を持っている人)が現われると言われています。
神は、サウロをとらえたように、突然、イスラエルのメシアにお現われになるように思います。
そして、サウロのもとに遣わされたアナニヤのように、キリストの血によって贖われ御霊に満ちた聖霊の器が、イスラエルのメシアのところに遣わされて、手を置いて祈ると、終りの時代に神に召されたイスラエルのメシアは、真理をはっきりと悟ることでしょう。
自己推薦ではありません。
明らかに、神御自身のご介入があることでしょう。
彼のもとに遣わされる聖霊の人「白い兄」も、神の選びの器である「イスラエルのメシア」も、その時が来ることを知らずにいるでしょうが、その時が来れば、御霊が双方に示されることでしょう。
すべてのわざは、キリストの御霊によって始まり、御霊によって成るのです。